北口を出て北進する中央通りと駅まで東西に伸びる立山通りがある。北口を出てすぐ左折し立山通りを少し行くと、そこに立山書房がある。この通りが田所は好きだった。適当に狭く適当に広く、人通りもある程度で明るく静かで、それは、駅を出てすぐの通りの右に高際屋デパートがあり、もう少し行くと衣服を中心とした長蔵屋があり、もう少し行くと左手に第三デパートがあったことにもよる。第三デパートの向かい、駅からは右側に立山書房があった。かなり充実した本がそろえてあると、田所は思っていた。入ってすぐのところに、岩波新書の棚があり、そこでは何度も立ち止まっている。
一年の秋も深くもう冬近い日、田所はそこで一冊の本を手にした。岩波新書で「生命とは何か」。著者は、アーウィン・シュレディンガー、ドイツの有名な物理学者だった。本の内容は、従来の生物学の世界を物理学から検討してみようというものだった。挿絵の中で、すぐ目に付いたのは、細胞分裂の図だった。この分裂の状態を物理学の力学の観点から検討してみようというものだった。
鮮烈な印象を受けた。生物学を物理学で検証する、そんなことができるのだろうか。物理学は無生物を対象とするという暗黙の前提の上に立っていた田所には、科学の持つ柔軟で貪欲な探究心がかすかながらにほの見えた気がした。しかし拾い読みをしているうちに、何か違和感を思えた。どこがどのようにというふうには、もちろん田所の力で指摘することは困難であった。しかし、この方法はどこか根本的にずれているというのが、田所の直感であった。多関心な田所だから、そこに一定の魅力を感ずれば、岩波新書は130円から150円で決して高くなかったから、すぐに買うことはできた。しかし田所は、その棚の前にしばらくいたまま、結局買うことはしなかった。もうそのころ哲学や文学でなく、ほぼ物理学を世界表現の方法にしたいと思う気持ちがかなりつよくなっていたから、物理的な方法というものに対して、かなり潔癖なところもあったのかもしれない。物理が新しい分野を開拓してゆくという魅力を感じていた。しかしそのためには、その方法が、澄んだものでなければならないというような思いがそのときの田所にはあった。多分青春が持つ直感だった。田所はそうした直感にかなりの信を置いていた。新しい方法は混沌としてはいるが、それでもやはり澄んでいなければいけない、そんなふうに田所は考えて、その本を買わなかった。しかしその本は自分が持つべき物理学への姿勢を鮮明なものにしてくれた。
Tokyo
17 October 2017
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