Monday, 16 May 2022

TAKEUCHI Gaishi sent me the Road to Meaning through mathematics


TAKEUCHI Gaishi  Mathematician 1926-2017



TAKEUCHI Gaishi sent me the Road to Meaning through mathematics

私の青春は、高校時代から数学がもっとも好きであったが幾度となく挫折を繰り返し、もう二度と近づかないようにしようとおもいながら、その抗いがたい魅力のゆえにふたたび近づいて傷つき、みずからの非力を感じ続けた日々であった。しかしその挫折を決定的に覆したのが、1976年に講談社からブルーバックス の一冊として刊行された先生の『集合とはなにか』であった。

この本は、集合という数学においてもっとも基礎となる概念を、その起点となったカントールから説き起こし、現代集合論の直近に至るまでを、ほんとうにわかりやすく述べたものである。しかしわかりやすいという表現には注釈をつける必要があるかもしれない

私は二校目の高校国語科教師として、1976年から1978年までの3年間を東京都青梅市に所在した都立青梅東高校で過ごしたが、そこで一人の若き数学教師と出会った。彼は東京理科大で修士課程を経て理科大の講師として数学を教えていたが、みずからの能力の限界を感じ、高校教員として再出発する道を選び青梅東高校に赴任してきた。彼は私に、もし能力があれば京大の博士課程を受けてみようかと考えていたが、その力はないとおもったので現在に至ったと、私に語ってくれた。そうした話の中で、私が竹内外史の本のことを伝えると、それはおもしろそうだから二人で勉強してみないかと、私に持ちかけてくれたので、放課後の二人の空き時間に黒板のある部屋で、彼が先生となり私が学生となって、本の最初から、問題となりそうなところを二人で逐一検討していった。

この本の中心の一つは、数字の1から9が集合論によってどのように生成されていくかを述べるところにあった。私はその一部に自身ではどうしても理解できないところがあり、それを黒板を背にした先生である彼に問い尋ねた。彼はしばらく考えてから、その解決方法を黒板に書こうとしたが逡巡し、「これは私にはわからない」と答えた。大学の講師であった彼がわからないことが、私にわかるはずはなかった。彼は「難しい」と言ってこの日の勉強は終わり、結局それがこの集合論の最後の勉強会となった。

彼とはそれからも、いろいろな話題で話が弾んだ。私の方が少し年上であったので、彼は常に礼儀正しかった。もっと普通に話してよ、と私が伝えても彼はその姿勢を崩さなかった。1979年3月で、私は同校から府中市にある都立農業高校の定時制勤務に替わり、4月から昼間は和光の専攻科生となった。彼もまもなく八王子市にある有数の進学校であった都立高校に転勤し、ある日の夜、彼と久しぶりに電車で出会った。彼は私に国立大学の言語学科の状況について尋ね、私はわかる範囲のことを彼に伝えた。彼は、私がその後も言語の勉強を続けているとおもっていたことは確かだった。



   東京都立青梅東高校 旧3年4組 
   東京都日の出町「さかな園」でのバーベキュー会
   写真の裏書 1999年9月11日
   みな38歳になり子どもたちも参加してたのしい一日となった



話を戻そう。

集合論による数字の1から9までの生成は、確かに当時の私では理解不可能なところを含んでいた。数学が専攻の彼であっても、1970年代末の集合論の状況では、そこが専門でない限り理解はかなり難しかったとおもわれた。私ははるか後年の2008年になって、Generative Theorem というPaper を書き、この長年の宿題に応えた。私はこのとき、von Neumann Algebra フォン・ノイマン代数、を必要とした。この Paper は少し長いので、以下にLink 先を示すこととする。一緒に勉強した彼とはすでに久しく会っていないが、どうしているだろうか。

GENERATION THEOREM

この1から9までの生成には、別の憶い出がある。幾度か書いてきたが繰り返すと、和光での研究生時代、構造言語学を講じていらした千野栄一先生との会話である。ある日の講義終了後、入口付近でふと先生と会話することがあった。先生は私に、今何を勉強しているかと尋ねられた。私は咄嗟に、傾倒していた竹内外史先生のことをおもい、簡潔に、意味の内部構造を、例えば1から9までがどのように生成されるかなどと考えていますと答えると、先生は真剣に、「そんなことはやめろ、おれたちが考えることではない、それは Wittgenstein などが考えることだ」と、怒るようにして言った。私は一瞬先生の反応に驚いたが、その場では「わかりました」とお応えした。

1920年代のプラハでプラハ言語学サークル Linguistic Circle of Prague が結成され、そこでSergej Karcevskij が「言語記号の非対称的二重性」を書き、言語における意味の大局的な構造に対する予想を示したが、その後、言語における意味構造の追求は遂になされなかった。言語において最も重要なことの一つであるにもかかわらず、意味とは何かを追究することはそれほど困難なことであった。

第二次大戦後、アメリカにおいて Roman Jakobson が、構想人類学を構築しつつあったフランスの Claude Levi-Strauss と出会い、新しい構造言語学を構想し花開くこととなるが、そこでも意味そのものの追求は困難なゆえに音韻または音素等の音声学的な方向へと進んでいった。後年の1973年、Jakobson はESSAY DE LINGUISTIQUE GENERALE 邦訳『一般言語学』みすず書房・1973年を著わし、その中で semantic minimum 意味最小体という概念を打ち出し、その中心的な記述は邦訳で137頁から140頁であるが、139頁において、Jakobson は以下のように述べている。

「もし語の構造の研究が一方では文法的意味の一覧表に、他方では音素とその根底にある弁別特製の目録に限られていたとすれば、ある所与の言語の音の側面の検討のためには、意味それ自体は、問題にならないと言っても正しいことになるはずである、ー 意味は互いにはっきり区別されてさえいればいいのいであるから、また、概念の側面の研究においても、意味の表現形そのものは、意味を互いに区別して表わすかぎり、問題にならないと言って正しいことになるであろう。しかし、これらの両最極端が、言語学的素材を究め尽すわけではけっしてない。」

と述べ、このあとでは、音素の結合という、音素論へとふたたび移ってゆく。このときの Jakobson の認識では、意味そのものの内部構造には踏み込んでいない。通常の方法ではこれ以上の進展を望むのは多分困難であろう。


要約すれば自然言語の意味の構造を、自然言語で述べることは多分不可能であろうと私は考える。20世紀を通して、意味そのものの内部構造は、明確な論理の集積としては追究できなかった。もし追究できるとしたら、それは数学基礎論の超言語か数学そのものに依るしかないであろうというのが私の結論である。従って私は数学による方向を選んだ。超言語は現在では、論理学の一分野となっていて、私はその根底はやはり数学に依るしかないとおもうからである。

しかし私は、常にJakobson の業績に深い敬意を払ってきた。彼が著わした『一般言語学』みすず書房・1973年と『言語音形論』岩波書店 1986年は、かなり長い間、私の机辺にあった。そして彼からの最も大きな恩恵は、彼の semantic minimum 意味最小体に強い影響を受けて、2008年に私は一篇の Paper、From Cell to Manifold、 をまとめて、彼にささげた。

CELL THEORY FROM CELL TO MANIFOLD FOR LEIBNIZ AND JAKOBSON


ふたたび竹内外史の『集合とはなにか』に戻ろう。私にとってはこの本の読後、数学によって言語を検討しようという方向が決定された。竹内外史先生は、私が、以後どんなに困難であっても数学を続けることの大切さを、意味という難攻の山頂を目指すことを、私に決定的に示してくださった。私は2006年に Growth of Word という Paper を書き、表題に竹内先生のお名前を記した。

GROWTH OF WORD DEDICATED TO TAKEUCHI GAISHI


『数学セミナー』2018年2月号 特集 竹内外史と数学基礎論 日本評論社 2018年、 に収載された竹内先生の随想「夕焼けにも似て・・・・・」は今もなお私の胸を打つ。1976年に先生の著『集合とはなにか』と出会わなっかったならば、私の数学への復帰はずっと遅れたかもしれない。その随想の一部を以下に引用したい。

「いま数学との出会いについて思い出そうとすると、思い出に出てくるものは、たいていは何か出来上がったものではなくて、どう頑張っても旨くできなかったことや、やりたいと思いながらやりそびれたことばかりである。してみると、私の数学との出会いは、数学と出会わなかったということになるかも知れない。」

「数学との出会いのすばらしさは、何度出会ってもその魅力が薄れないことである。」

 



TANAKA Akio
4 March 2021

Sekinan Library

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