Google tag

Friday, 8 August 2025

Crowd 1969


1969

Crowd

雑踏

私は文学科3年に編入学したときから、芭蕉あるいはそれに近いゼミがあれば参加させてもらいたいとおもっていた。近世文学では、文学科長であった近藤忠義先生の歌舞伎関係のゼミと、佐伯先生の芭蕉のゼミであった。近藤先生から私は、日本文学史を受講することとした。講座ではグループ分けがおこなわれ、私は自分のグループでの発表を室町時代の五山文学を希望し、それがかなった。

中世禅僧の残した五山文学の詩文は難解であり、また1960年代では完結すれば膨大な量となる玉村竹二先生の五山文学新集の編纂がまだ進行中であった。私はできたらその新しい成果を一部なりとも、確認してみたかったが、そのときは果たせなかった。また日本での漢文受容がいわゆる書き下し文によって行われてきたことに対し、私は中国詩文の一支脈とも解された五山文学を、現代漢語音で通して読み、その韻律を含めた日本の受容の形態を調べてみたいと、前からおもっていたからである。

しかし五山を読み始めると、予想以上の困難があった。まず、総覧的に読める選集の類が当時はほとんどなかった。次に私の現代漢語の水準では、中世禅僧の、多分に中国文献から移入したとおもわれる難解な漢語を現代漢語音で読み通しかつ理解する力量が極めて不十分であった。それは当然であった。後年、岩波書店から日本古典文学大系の新版が刊行されはじめ、その中に入矢義高先生の『五山文学』が1990年に刊行されて、わかったことであったが、五山の詩文には中国宋代の詩語、口語また方言等が微妙に交錯しており、入矢先生が生涯をかけて収集し続けやがて辞典とすべき学績を、先生はついに刊行することはなかった。

この入矢先生の『五山文学』に付された「月報 18 1990年7月 第48巻付録」で安良岡康作(やすらおか こうさく)先生が「中世文学における五山文学」において、五山文学研究の現況を以下のように書かれている。「五山文学を、中世禅文芸全体の中から、五山派に属する禅僧の制作した漢詩文と規定したことは、『五山文学』『五山文学新集』(全八巻)『五山禅僧伝記集成』『日本の禅語録八 五山詩僧』『五山禅僧宗派図』等に一貫している、国史学者、玉村竹二氏の業績であって、将来のこの方面の研究の方向を定められたものと言ってよい。」私は日本文学史の発表で、五山の概要をまさしく初歩的レベルで述べることしかできなかった。

最も重要と当時おもっていた、宗教と文学の相克も葛藤も、ほとんどなにひとつ具体的な例証を挙げることなく終わった。しかし和光への編入学は、私にこれからの、ほとんど無限ともおもわれる、広大な学問の裾野を遠望させてくれた。それは教養課程の外語では際会できなかったことであった。それまでなにひとつ調べることなく、1969年の正月に朝日新聞に載った小さな新しい大学の記事の中に「和光大学」というまったく未聞の大学名を見ただけで、私は直観的にこの大学への転学をおもい立った。

半世紀を超えた今、それは大仰でなく、運命的な出会いであったと確信をもって言えるであろう。私には、この上ない無上の邂逅であった。1971年2月、近藤先生は、日本文学科2期生で、教職に進んだ私を含む三名を先生の御自宅に招待してくださった。先生が研究をなさる和室であったとおもう。先生はいつものおだやかで静かで、いつもの若い人たちにほほえむような話し方で、私たちの新しい出立を祝してくださった。先生のお話の細部を思い出すことは困難だが、先生が三人に手ずからお茶を淹れてくださりながら、「私の名前は、忠と義だからね」とほほえみながら話しかけてくださったことが忘れられない。そして私に対しては、「田中君のレポートは細かいね」と批評してくださった。学年末のレポートで、私は『万葉集』の最後の大伴家持の歌について、思うところを書きしるした。家持の中の去り行く古代への挽歌を、なにか例証を挙げて書いたことまではおぼえているが、それ以上は今憶い出せない。私は単純だから、先生のこの批評を、学問的には極めて厳しい先生からいただいた、出立の励ましの優しいおことばとして、卒業してゆくことができた。

佐伯昭市先生と初めてお会いしたのは、土曜の特講「正岡子規」であった。土曜とあって、受講者は4月から少人数であったが、佐伯先生の講義は丁寧で重厚であった。私は外語の教養課程では味わえなかった、専門科目の魅力を初めて感じた。土曜ではあったが、私は多分一日も休むことなく受講した。初めての受講終了後、私は佐伯先生に、先生の芭蕉のゼミへ参加したい旨をお伝えした。そのとき私は、この日のお願いのための、にわか勉強で少しだけ読んだ『三冊子』を「さんさつしを少し読みました」と述べると、先生は「ああ、さんぞうしですね」としずかに応じてくださった。私はみずからの無知が恥ずかしかったが、先生は「いいですよ。どうぞ」とお答えしてくださった。こうして私は、この論考ではとても述べきれない、先生からのご好意を、在学中も卒業してからも、無尽蔵に近くいただくこととなった。その一端を、Influential 4 のMemorandum に記載した。

INFLUENTIAL 4

先生の土曜の講義は「子規」おひとつで、私も先生の特講を受講するだけであったので、講義のあと少しだけ、先生の研究室でお話ししていただくことができた。こんなことは外語では皆無であった。さまざまなお話を伺ったが、いちばん貴重であったのは、私自身が先生の影響で、まったく未知であった俳句を作ることの手ほどきを、先生みずからの個人レッスンで教えていただけたことであった。このようなことは編入学前、まったく予想しなかったしあわせなことであった。あるとき先生は「切れ字」について教えてくださった。「霜の墓抱き起されしとき見たり」という石田波郷の名句について、先生は「この句は、霜の墓のところで切れて、ここでこの句が二分される」と話してくださった。私はここに俳句の真髄があることをかすかにではあるが感じ取ることができた。私はこうして、先生が主宰する句誌『檣頭』(しょうとう)への参加をお願いするようになり、きわめて未熟な句を投句することとなった。

卒業後、先生の御自宅を訪問し、門前で来意を告げると、奥様がお出になってくださった。私はふと門柱に掲げられた先生の以前の句誌『炎群』の標札に目をとどめると、奥様は「子供がいないから、あの人にとって、句誌は子供みたいなものなの」と話してくださった。奥様の優しさと先生への深いご理解が、今も奥様の門前のお姿とともに憶い出される。

和光にもようやく慣れ、素晴らしい出会いをいくつも経験し、日々の体調も良好となった初夏、私は久しぶりに懐かしい新宿に出た。外語のときはよく土曜のあと、新宿東口の紀伊国屋書店に寄ることがあった。この日も東口の階段を上がり、初夏の光のまぶしい路面に出たとき、私は言い知れない幸福感に満たされていた。そして自然にわきあがった想いの句が浮かんだ。数少ない私の句の最初期のもので未熟であることは承知しているが、半世紀前のこの句が、今もなお、私の最も好きな句となった。

光の海雑踏はすずしいあじさいの花

No comments:

Post a Comment