1966年ー1977年
華埜井香澄先生の論文、随想そして二冊の本
華埜井先生の著述で私が現在確認しているのは、以下のものである。年代順に列挙する。「スタンダールと宗教」『人文学部紀要 1 1966 和光大学』 35頁-50頁 1966年『悪魔のしっぽ―フランスの昔話ー』編者 華埜井香澄・牧野文子 三修社 1972年3月1日 第1版「仏語入門三つのタイプ」『和光大学通信 第18号』6頁 18975年4月20日発行『新フランス語文法』著者 華埜井香澄・作田清・井上範夫・住谷在昶 駿河台出版社 1977年4月1日 初版華埜井先生の和光大学への着任は1967年4月であり、本来ならば、論文「スタンダールと宗教」の『人文学部紀要 1 1966 和光大学』への掲載はあり得ないこととなるが、何らかの事情で、『人文学部紀要 1 1966 和光大学』の発行が1967年度以降になったため、掲載が可能となったとおもわれる。
はじめに、華埜井先生が和光大学でのフランス語教授において、どのようなおもいを抱いて臨まれていたかを示す「仏語入門三つのタイプ」についてみることとする。先生は、必修となっている外国語学習の位置について以下のように述べておられる。「私たちは、外国語を勉強することによって、日頃無意識に浸り切って生活している日本語というものをはっきりと自覚できるようになるのだと思います。」と簡潔にまとめておられるが、その学習に臨む学生を大きく三つのタイプに分類しておられる。
「意欲的である」第一のタイプ「歩いたり走ったりするには、目的に向って足を交互に前に出さなければならないという基本をすっとばしてしまう」「意欲的である」第二のタイプ「足もとばかり気にして、自分が今どこを歩いているのか、どこに向っているのか一向に定かでない人」この二つのタイプに対して先生は「一緒に勉強する私の方もいきおい力が入ります。」と述べられているが、この二つの評言からは、一歩一歩着実に進むほかに王道はないとする外国語学習の基本の徹底を学生に求めていることが感じられる。私自身は多分第一のタイプに属するとおもう。後述したいとおもうが、1977年に刊行された『新フランス語文法』は共著であるが、まさしくフランス語の基本である、動詞の語形変化に多くの課を割いている。
先生が述べられる第二のタイプは、私からはやや遠いもので推測となるが、語学の基盤となる文法に即して考えるとき、現在学習している文法が、フランス語文法全体の中で、どの位置を占めるかが不分明な学習者等を指すのではないかと推測する。英語学習に例を取ろう。「現在完了」The present perfect という文法概念がある。直訳すれば「現在において完了している」という概念であるが、特にこの中の「完了」 perfect という概念を理解することは「意欲的である」学習者にとっても、かなり難しいのではないかとおもわれる。非理解のままであるとすれば、「自分が今どこを歩いているのか、どこに向っているのか一向に定かでない」状況におちいるであろう。
基本的には、学習者自身がみずから調べ、不分明な点については、教授者に質問するということとなるとおもうが、問題となるのは、どこが不分明であるのかもわからない場合である。私が数学においていつも痛切に感じているところだが、教室においては、教授者である先生がおられるので、率直に自分の理解度を伝えて説明していただくことがよいとおもうが、それ以下の場合はどうなるのであろうか。後述する華埜井先生が分類された「第三のタイプ」となるのであろうか。ちなみに、私がときどき参照するEnglish Grammar in Use THIRD EDITION, CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS, 2004 には別刷りの冊子が挿入されており、その冒頭の項目が Present perfect (I have done)であり、次の項目が Present perfect( I have done )and past simple ( I did ) となっている。この二つの概念の違いが多くの初学者にとって理解困難なことを示す一証左となるであろう。説明は以下のようになっている。
The present perfect is a present tense. It always tells us about the situation now. ' Tom has lost his key.' =he doesn't have his key now. The past simple tells us only about the past. If somebody says 'Tome lost his key' , this doesn't tell us whether he has the key now or not. It tells us only that he lost his key at some time in the past.
すなわち、現在完了という概念は、Present tense 現在時制であり、決してPast tense 過去時制ではないと明言する。この説明は簡潔であるが、非ヨーロッパ系の初学者には、tense 時制という概念がまたひとつ障害となるであろう。時制という概念はヨーロッパの言語においては、動詞の活用と密接に関係して必須の概念であるが、少なくともアジアの諸語使用者にとっては、必ずしも通用の概念ではない。上記の説明では、now と past とを斜字体にして強調している。私がテレビでたまたま、イタリアの小さな村の小学校の国語の時間を見たとき、小学校二、三年生が、イタリア語の動詞活用を、一人一人が先生に向って朗誦している場面があった。しかも複雑な過去時制までの活用を続けて朗誦するのである。母語としても、そのように多くの努力を小学生低学年から行っているのである。以下において、本文の引用を「」で示しながら、各章を概観したいとおもう。私の浅い理解については寛恕を乞う。
1.はじめに「スタンダールは、宗教の何たるかを考えることができる年令に達するはるか以前から、聖職者に対する深い嫌悪と憎悪の気持を植えつけられていた。」
「聖職者階級、特に当時その俗権をほしいままにしていたジェスイットに対する生涯に亙る反抗となった。」
「しかしながら、このことによってのみスタンダールの宗教観を断定して反宗教的とするのは早計である。」
「心情として捉えられた宗教感情に対しては、無感覚であるどころか、それに感動せざるを得ない極度に感じやすい魂を彼はもっていたのである。」
「スタンダールが、不合理なもの、超自然的なものへの止み難い嗜好を持っていたということも否定できない」
2.憎しみ「スタンダールは、理神論者やヴォルテールのように、神が人間及び人間以外の一切のものの第一原理であるとは信じていない」
「神が存在するかどうかという問題は、スタンダールの如何なる作品にも提示されていない。同時代の作家たちの間で、形而上学的不安から完全に免れていたのは彼一人であったかもしれない。」
「彼の明晰さは彼の自我を彼自身の外部にある一切のものと混同しようという誘惑に対して決して身を委せはしない。」
「スタンダールの反強権思想は、宗教の領域における形式主義と狭量とによってしばしば呼び覚まされるのである」
「スタンダールの反強権思想の決定的で最も明瞭な現われは、世俗的なものの利益のために、精神的なものと世俗的なものとを結びつけることに対する断固たる拒否である。」
「スタンダールがジェスイットに対して最も強く非難したもの、それはジェスイットが王政復古下におけるフランスの支配者であり、軍隊をもち、帝国を形づくっていたという点であった。」
「感動的な力、誠実さ、無償の自己拘束に身を委せない一切のものを彼は唾棄する。逆に、感動的なものに全身を没入させる自然味を何よりも礼讃するのである。」
「彼が自分の行動の誠実さと自分の自然味の限界とを吟味しようとして自分自身の上に批評の目を向けるのは、彼の自然さという倫理がまさに開花しつつあるときである。」
3.愛「「今日、サンタンドレ寺院に逃れてきたドミニカンの壁画と向い合っていた。昨日は、サント・パラクセードであった。」宗教的芸術あるいはイタリアの宗教のこうした絵画的な側面に対してスタンダールが示した愛の中には、確かにディレタンティスムがあったかもしれない。しかし、ローマ散策中に突然イタリアの宗教におけるキリスト教の精髄に心を打たれたスタンダールは、決して彼の先入観をここに持ちだしてきてはいない。」
「旅行者スタンダールは、たまたまゴチック建築の下を散歩していて、突然の衝動を実感し、新しい世界に自分が移行しつつあるのを感じるのである。」
以上のローマ散策を受けて、華埜井先生はスタンダールの『イタリア絵画史』から以下の部分を引用する。私、田中にはこの論文中で最も重要な引用の一つではないかと思う部分である。「魂の偉大なる運動、および人間が事故を超越する幸福な瞬間を説明する機会を、殆ど常にキリスト教の主題が提供している。」
「キリスト教は常に人間を、即ち何らかの感動的な状況においてあなた方が興味をもつ存在を、あなた方に示している。」華埜井先生はこの部分を受けて、フランス語の語彙に対する重要な指摘を行なっている。「このキリスト教礼讃は、スタンダールがしばしば用いる崇高なという形容詞(sublime)を正確に定義する価値をもっている。」sublime について、LE PETTIT Larousse UILLUSTRE, 2004 では次のように定義し、例文を載せている。
SUBLIME ADJ. (lat.sublimis, haut)1.D'une haute valeur morale, intellectuelle ou artistique ; noble. Sublime abnegation.
知的あるいは芸術的な、高い倫理的価値の一つ。崇高な。崇高な自己犠牲。
華埜井先生はスタンダールのキリスト教礼讃を、崇高という概念にふさわしいと評している。先生のスタンダールの内面描写をさらに引用する。「『イタリア年代記』の中では、アヴェ・マリアは単に倫理的価値であるのみならず、劇を支配する糸でもある。それは出発点であると同時に最後の保証でもあるのである。」「宗教的感動は、従ってスタンダールにあっては創造的価値である。これによって彼は、行動における性格を、更にまた構成と文体における性格を徹底的に展開させることができるのである。」「彼は、フランスの合理主義者のブルジョアになるより、ドン・キホーテか、、迷信的なイタリア人になった方がよいとさえ考えるのである。」華埜井先生は、この「3.愛」の章において、スタンダールのイタリア滞在中における宗教的な反応を繰り返し、叙述する。「魂の真のよろこびを見出し、芸術の傑作とイタリア人の風俗と共に生きたよろこびを、スタンダールは宗教に負うている。」「イタリア人の信仰は単に内的情熱であるばかりでなく、絵画や遺跡の中で、キリスト教の崇高さを惹起するのである。」「崇高、自然、超自然について彼の抱いていた概念は、敬虔なイリア人との関係において定義され、豊かにされるのである。」この章は、スタンダールの、アウグスチヌスの広く流布したキリスト教の格言とイタリア人の誠実さと結ぶことばをもって閉じられる。「スタンダールはよろこんでイタリア人の同朋であることを認める。なぜなら「彼らは必要とあればアウグスチヌスの Credo quia absurdum ( 不合理なるが故に我信ず)を何度も繰り返す程の誠実さをもって信じている。」からである。」この章は、冒頭で華埜井先生が簡潔に述べられたことば「宗教的芸術あるいはイタリアの宗教のこうした絵画的な側面に対してスタンダールが示した愛」をスタンダールの『ローマ散策』を中心に確認し、次第に歴史的に遡り、中世のアウグスチヌスに至っている。むすび「憎しみ」と「愛」を経たスタンダールは、その結果をみずからの作品のうちにどのように昇華させたのであろうか。
『西順蔵著作集』全3巻・別巻1巻が1995年から1996年に内山書店から刊行された。編著『原典中国近代思想史』全6冊、岩波書店 1976年ー1977年は、先生を慕う若き研究者たちと横浜の先生の御自宅で講読を続けた、当該主題の必須の文献である。
私は小型辞典の有用性は極めて高いとおもう一人である。かつて辞書をほとんど利用なさらないとおっしゃっていた川崎庸之先生が愛用しておられた一冊の小型辞典がある。山川出版社から昭和32年1957年に刊行された『日本史小辞典』である。先生はこの辞典を称して「玉手箱のようだね」とおしゃっていた。常用ではないが、ときに必須となる小型辞典の数冊を列記する。小型辞典は一種不思議な存在であると、今もおもう。限られた容量の中に、だれもが必要とするものを、どう選択してどう記述するか。
THE BANTUM NEW COLLAGE LATIN & ENGLISH DICTIONARY. Bantum Dell. 1966
The Concise Dictionary of ENGLISH ETYOLOGY. Wordsworth. 2007
Oxford English Mini Dictionary. Oxford University Press. 1981
Paperback Oxford English Dictionary. Oxford University Press. 2001
LONGMAN Handy Learner's DICTIONARY OF AMERICAN ENGLISH NEW Edition. Person Education. 2000
PETIT DICTIONNAIRE FRANCAIS. Librairie Larousse. 1990
The Oxford Quick Reference German Dictionary. Oxford University Press. 1998
OXFORD New Russian Dictionary. Russian-English English-Russian. Oxford University Press. 2008
緒言「この辞典の編纂は昭和30年着手、爾来約15年を経てようやく出版の運びとなった。(中略)カードの総数は約20万枚、整理によって除いたものが約5万枚、従って編纂工作の対象となったのは約15万枚であった。」「原稿カードをインフォーマントの中国人と共同して逐一検討するような愚直な方法は、かなり時間のかかる労作ではあったが、これは一度は誰かがやっておくのも異議無しとしないと考え、私は敢えて終始この方法を採った。(中略) 昭和46年 春 熊野正平 識」あとがきに代えて「本書は元来コンサイス・シリーズの一環として企画された。(中略)これをお諮りしたのは1954年(昭和29年)秋のことであった。」「この時期は国の内外において転換の時期でもあり、(中略)ひいては小社の倒産(1974年)という現実もこれに追い打ちをかけることとなっていった。(中略)1973年に本企画は已むなく中止となった。」「先生は黙し難い思いを胸底に秘められたまま遂に1882年(昭和57年)不帰の人となられた。(中略)まさに満84歳の御生涯であった。」「善意と努力と協力が結晶し、昨年10月10日(中略)上梓されたのである。その淵源より数えてまさに一世代、30年を要した。(中略)1885年4月8日 株式会社 三省堂」
以上が熊野先生の編纂なさった辞典刊行までに至る経緯である。学問が無数の人々によって継承されて行くことに、何人も襟を正すであろう。ここに三省堂の許諾を得て、1985年11月3日の朝日新聞朝刊に、三省堂によってなされた本書の広告を再掲したい。簡潔にして精緻であり、本書成立の歴史を通観するにふさわしいとおもわれるからである。
朝日新聞 1985年11月3日 朝刊 © 三省堂
バイイに戻る。フランス語学習においてなぜ動詞の活用が最も重要なのか。 バイイの結論は以下である。
「フランス語では動詞意義部は完全に語尾と文法的限定のうちにおぼれている」
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