Sunday, 2 September 2018

Abstract From Letter to the library Short autobiography between 1969 and 1986 / 2018

Abstract
Chapter 5
私は1986年3月、研究生を終了するとともに、それまでの仕事も退職し、4月から Sekinan Libraryという研究場所を設け新たな活動を始めました。
当時私の進路を案じてくださったA先生ご夫妻が、幾度かお電話をくださったことを、心からありがたく思われ、感謝する思いが今も消えません。
AMINO Yoshihiko, historian of modern Japan
2.
Chapter 11
日本仏教史のK先生のすごさもたびたび経験し、時にはそのすごさに、私自身の顔が真っ青になるようなことがありました。
或る時漢文の返り点「レ点」の話になったとき、これは日本独自の問題ですので、先生に、この初出はいつなのでしょうね、尋ねましたとき、先生は初出かどうかはわからないが、道長の「御堂関白記」(みどうかんぱくき)に出てくるよと、話されましたので、私はその時まったく偶然にも、3巻全部の御堂関白記をカバンで持ってきていましたので、先生にお渡しすると、細かくびっしりと組まれた東大史料編纂所刊行の三冊の中から、一冊を取り出し、二三ページめくっただけで、「田中君、ここだよ」と示されたときは、まさしく顔面蒼白となりました。4,5行読み取るだけでも当時の私にはかなり難解な本文を、先生はほとんど記憶していたのです。
先生からは今も決して忘れることのない、大切なことばを教えてもらいました。多分、比叡山のことを話していたときだったと思います。
先生は、「僧には行僧(ぎょうそう)と学僧があって、行僧は行をしていればよく、学僧は学をしていればいいんだよ」ということばでした。人には人それぞれの
生きる使命があるのだよ、ということを、いつもの先生の静かな言い方で語ってくださったのだと思います。このことばは私の生涯のことばのひとつとなりました。
先生の思い出はあまりにも多く、もうずっと以前にエッセイ「すてきなおとうさん」でほんの少し先生のことに触れましたが、それ以外には今もほとんど書けないでいます。
Papa Wonderful 37 Photo
3.
Chapter 13
Kj先生は、私が教職の試験などで欠席が重なった時、自宅宛てに手紙を書いてくださり、「田中君、どうしましたか、お元気ですか」と心配してくださったのが昨日のように思い出されます。一度は「自宅に来ませんか」と誘ってくださったのですが、そこまで甘えるのはいけないと思い、遠慮しましたが、のちに先生が早逝なさったとき、先生の優しさにお答えしなかったことが悔やまれました。比較的近かったKa大学なのでいつでもお会いできると思っていました。
KAJIMURA Hideki   His Korean Classroom 
4.
Chapter 13
静かなCh先生が、私の韓国語の「イムニダ」の発音に何度も首を振られて認めようとなさらず、最後に「この発音はむずかしいから」と慰めてくれました。先生の言語に対する厳しさを垣間見た一瞬でした。
Papa Wonderful 25 Foreign Language 
或るとき、授業終了後、前々から気になっていた、韓国における漢文訓読の仕方について、先生にお尋ねすると、先生は丁寧に黒板に板書しながら、その仕組みを教えてくださいました。
そしてまた別の日、先生と夕暮れ近い窓辺で、先生が韓国語との出会いをお話ししてくださったことがありました。先生がTg大学で中国語を学んだあと、韓国の延世大に留学なさった細かな経緯をこのときはじめて知りました。そのとき私も実はTg大の中国語科でしたと、お伝えしたかったのですが、なぜかそれは切り出せませんでした。それは今もなにか悔やまれるおもいとして、残っています。
5.
Chapter 8
中国文学のO先生は、私の卒業後、しばらくして卒業時の謝恩会の私が写った写真を、手紙を添えてわざわざ自宅宛てに送ってくださいました。
先生とは研究生時代に、帰りの小田急でご一緒させていただいた折、私が「先生、難解な元曲をよくゼミで取り上げられましたね」とたずねますと、先生は「ああいうものもしないといけないからね」というお言葉でした。しかしこの会話が先生との生前の最後のものとなりました。
O先生は私が専攻科時代に、修了のための論文として空海の著作の編年を言語的に検証したものを書きましたとき、K先生が私の論考をO先生に伝えていて、廊下でお会いしたとき、「田中君、君の論文と同じような方法をカールグレンが書いているのを知っているかね」と尋ねられ、私は「カールグレンの、グラマタ・セリカは見ていますが、私のような方法を記した論考は見ていません」と答えますと、先生は「研究室にそれを私が訳したものがあるから、見るかね」とおっしゃって、研究室で私にその大切なご本を貸与してくださいました。そのことをK先生に伝えると、Oさんは言語の達人だからね、と微笑みながら楽しそうに話してくださったことを、鮮明に覚えています。
その後、 先生が訳された「左伝真偽考」は神田の中国語専門書店、山本書店で見つけ購入したことを先生にお伝えしました。このことは、カールグレンの業績とともに、O先生への感謝をしるす文としてSite に載せました。
ONO Shinobu and Bernhald Karlgren
O先生の深い学識に改めて触れたのも、この専攻科の論文について、先生が述べた短い言葉でした。田中君の方法はカールグレンに似ているがあの方法を多用するのは注意した方がいいよ、と述べられたのでした。先生はもうそれ以上何もお話しになりませんでしたが、私には先生の注意が、痛いほどわかりました。私が論文を書きながら最も気になったことだったからです。
私は論文を空海について書くことは早くから決めていました。しかしその方法がわからず、迷い続けていました。仏教史のK先生に提出するために、私が取れる方法がほとんどなかったからでした。古代史的にも仏教史的にも、私が何か新しいものを提示できることなど、限られた専攻科の時間の中ではほとんど存在しなかったのです。夏休みに入り、隣の市の本屋さんにたまたま立ち寄ったとき、そこでまったく偶然に、私は、日本の古代文学の高木市之助先生が書かれた岩波書店刊行の「貧窮問答歌の論」を眼にして、手に取りました。この本は,山上憶良の貧窮問答歌を全く独創的な方法で、分析したものでした。私は立ち読みのまま、高木先生の「文字の論」が私の求める方法であったことをその場で実感しました。この方法を用いれば、いくばくかの新しい結果をK先生に報告できるかもしれないと思ったのです。
高木先生は、貧窮問答歌の中に現れる漢字を訓字と音字に分けて、その出現度数を精査し、そこから貧窮問答歌の万葉集における特異性を指摘しようとしました。私の場合、空海の「三教指帰」の漢字本文全体の個々の文字の出現度数を調べ、その中で特に助字の度数を比べることによって、もしかしたら空海の記述の特性が浮かび上がるかもしれないというものでした。それからは毎日、時間があれば「三教指帰」全文の漢字の出現度数を調べ続けました。
論文提出の期限が近づく中、全文の漢字出現度数は完成し、助字の出現度数の多寡は確定しましたが、それによっては、空海の記述の特性は明瞭にはなりませんでした。冬が近づく中で、私はいろいろな方法を試しながら、最後に一つの方法を思いつきました。漢字出現度数は最終的な静的な結果であり、漢字出現の動的状況ではないことに思い至りました。空海が「三教指帰」を記述してゆくとき、どのような間隔で特定の助字を使用するか、その動的な記述の状況を調べればなにか特性が現れるのではないかと感じたのでした。
「三教指帰」全体の中から、頻出する特定の助字を選出し、それらがどのような間隔差で出現するかを、方眼用紙上に棒グラフとして示していきました。すると、上巻と下巻は助字の出現状況が近似しているのに、中巻だけはまったく異なる出現状況が、グラフ上に明示されたのです。「三教指帰」の中巻は上巻・下巻に比較してきわめて短いもので、その特異さはかつてから指摘はされていましたが、私はこの助字の出現状況から、上巻と下巻はほぼ同時期に書かれたが、中巻だけはこれとは別の時期に書かれたのではないかと推測し、これを論文の結論としました。
漢字の静的な出現度数に時間差という動的状況を加えた分析から著作の撰述時期に区分を付けたのでした。
O先生が訳されたカールグレンの「左伝真偽考」では「春秋左氏伝」に出現するいくつかの助字を「論語」と「孟子」の助字の出現と比較することによって、「左伝」の作者特定や時代を特定しようとしていました。確かに私が用いた方法と近似するものでした。
しかしO先生の慧眼は、カールグレンや私の方法の一定の有用性を認めたうえで、この方法の大きな問題点を見逃してはいなかったのです。
問題点の大きな一つを簡潔に述べれば、検査する著作の量的大きさが,挙げられます。いわゆる母集団の大きさです。「春秋左氏伝」は「論語」や「孟子」に比べて圧倒的に膨大な著作です。空海の「三教指帰」について言えば、上巻と下巻は、中巻に比べてずっと大きな著述になっているのです。つまり、量的にあまり均質でない集団を比較することの危険性ということになります。私自身が論文を書きながら、この危うさに気付いてはいましたが、そこに立ち止まると論文が完成しないために、この母集団の比較検討を行うことなく、論文をまとめてしまいました、O先生の慧眼は、そのことを見逃さなかったのです。
先生は私の研究生時代に急逝されました。私は先生からもっともっと多くのことを教えていただきたかったと、先生の温容を思い浮かべながら、思わずにはいられません。  
6.
Chapter 10
中国哲学のN先生のゼミにも研究生時代に先生が病没なさるまで参加させていただきました。温泉にも数回御一緒させてもらいました。旅館では夜、ほかの学生もいたのでしょうが、私は先生と二人で相対し、先生から「哲学史は教えられるが、哲学は教えられない」ということや、段玉裁の「説文解字注」に話が飛んだとき、先生あの本はどうですか、とたずねますと、先生は即座に「あんなむずかしい本読めるかいな」とか言って笑っていました。先生の講義はまさしく絶品で、私はノートを取りながら、読み返すと、そのままでほとんど著作となる素晴らしさに驚きました。ゼミでは中国革命以前の諸著作を翻訳で読んでいましたが、途中で先生が、この訳ちょっと変だねとおっしゃるので、私はいつも原本を持ってきていましたので、そこを見ると誤訳というのではないが、確かに少し変な訳であることがしばしばあり、まさしく「眼光紙背に徹す」ということわざを実感しました。
先生が古代中国思想史で老子を講義されたとき、その内容があまりに素晴らしかったので、講義のあと先生が黒板を消されているときに、教卓のそばに行き、先生にその旨をお伝えすると、先生はもうだれもいない教室でしたが、再び黒板に向かって一本の木を描き、その枝の先端が細く虚空へと延びてゆくところを示して、この枝の先端が虚空へと消えてゆくところが、「妙」という概念だよとを教えてくださいました。
N先生のことは2度ほど、英文で載せました。
NISHI Junzo, Philosopher of Modern JapanIntuition and MathematicsPapa Wonderful 21 History  
7.
Chapter 12
言語学のC先生は、年齢的な近さとその明るいお人柄で、しばしばご一緒させていただき、帰り道から電車内まで、言語のことを教えていただきました。
先生については、かなり多くの文を書いています。初めての出会いは1969年のロシア語文法からですから、私が21歳、先生は30代半ば、まだチェコから帰られて間もないころからのお教えでした。
Fortuitous Meeting
From Distance to Pseudo-Kobayashi-Distance  
Papa Wonderful 17 Professor MOMOSE 
先生とは Ts 駅前の喫茶店でも幾度かお話を伺いました。私がTg大出身ということも、途中から伝えていましたので、そんな気安さからも、まさしく言語の恩師となりました。河野六郎先生の「転注考」の原本が韓国で発見されたとき、その大切さから、韓国の学者が自ら飛行機で持って来日し先生に届けられたという、学問の尊さを教えられたのもC先生からでした。
Coffee shop named California
Under the dim lightその河野先生の博士号授与にかかわったのが、K先生の盟友、比較言語学のKz先生と, Wk 大学のO先生であったことは、のちにK先生から伺いました。
C先生が教えてくださったプラハ言語学サークルのことは、私はみずからのSite で幾度か取り上げました。私の30代からの方向を決定づけたものでしたから。
私は、先生とかわした、研究生時代のもう終わりに近いころの、先生との会話をいつも思い出します。
Linguistic Circle of Prague
Prague in 1920s
Half farewell to Sergej Karcevskij and the Linguistic Circle of Prague
その日、先生の講義が終わった後の立ち話の中で、たしか教室のドア付近で、先生がふと私に、今何を勉強しているのかと尋ねたときがありました。私はそのころ、1985年ですが、ゲーデル、竹内外史そしてブルバキに強い影響を受けていましたので、たとえば数字の1から9の一つ一つにどのような内的な意味構造があるのかを考えたりしています、と咄嗟に思い浮かんだことを答えました。多分竹内外史先生の著作から受けた、まったく勝手な自分なりの影響であったと思います。
Bourbaki' ELEMENTS DE MATHEMATIUE Troisieme edition, 1964
The Time of Language, Ode to the Early Bourbaki to Grothendieck
この私の返答に対して、多分先生は、私が答えた氷山の一角のような曖昧なことばの総体を見とどけ、強い口調で応じました。そんなことはやめろ、そんなことはヴィトゲンシタインのような天才が考えることだ、と。言語における意味の追求がどれほど困難なものであったかは、プラハ言語学サークルの大きな方向を見ても明白でした。
The Time of Wittgenstein
ある点では、私が最も強い影響を受けた、カルツェヴスキイの言語に対する予想自身が、一つの個峰であったのです。私を導いた、たった一つの彼の予想、言語記号の非対称的二重性。言語はなぜかくも柔らかく、そして強固か。
結果的には、先生のこうしたことばの堆積が、私の生涯の方向を決定しました。
Note for KARCEVSKIJ Sergej's "Du dualisme asymetrique du signe linguistique"  
先生が学長になられて、一度お伺いしたいと思っているうちに、年月がながれ、先生の著作はほとんど読み継いでいましたが、その感想も伝えられないうちに亡くなられたことがいまも悲しみとして残ったままです。
あの古びたガタピシとした階段をのぼり、やや暗い電気の下でお話した日々が、昨日のことのように思われます。
Coffee shop named California  

Tokyo
31 August 2018
T.A.

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