4 Eve
4 前夜
雨になりそうな天気だったが、Aは工芸展を見に行くのに、Iを誘った。
都市線をK駅で降りて簡単に食事を済ませてから、大通りへ出た。
―このまえ一緒に来たのはいつだったかしら?
Iは遠くをふりかえるように言う。
―いつだったろう、ほかの人とは来なかったの?
―たまにはそうしたいけど、だめみたいね。
Aを見て彼女はほほえむ。
降りはじめたが、傘をさすほどでもない。
天使のやさしさで振る雨。
―こんな日に誘ってわるかったね。
―そんなことない。うれしかったわ。
以前よりあかるくなった彼女を見ると、ほっとする。
通りにはいろんな看板が見える。
左手奥にたしか老舗の海苔店がある。
―今日はかえりに海苔を買いたいな。
―海苔?
―少しだけいい海苔を食べてみたい。ほかにおかずもいらないし。
―そんな食事ばかりなの?
―朝はね。夕食はちゃんとつくるよ。
通りの窓に、雨の都市で語らう人たちが映し出される。
工芸展はM百貨店で毎年秋に行なわれていた。
―十日くらいで終わってしまうと、なかなか見に来れないものだね。
―誘ってもらってよかったわ。
―ひとりで来ようか、すこしまよったんだよ。
―ありがとう。
傘をさす人はほとんどいない。
二人が再会して、三度目の冬がまもなく来る。こんなにしばしば会うようになったのは、比較的最近のことだ。
AがG市に移ってからはS駅に出やすくなったので、むかしよく行っていたK書店にまたときどき出かけるようになった。そこでI
と再会した。
車と人がしだいに増えてきた。
中心街へ入ってくると、点灯した車のライトがまぶしい。建物が高くなってきた。二人の頭上には、はなやかな、赤と紺の地に金で
縁取りされた小旗が歩道に沿って飾りつけられ、それがずっと先まで続いている。
―祝祭の前夜のようだね。
iii
何に対しての前夜だったのか、自分がその中にいるとおもった日々が、かつて確かにあった。
―前夜?
―そう、前の日の夜。
―クリスマスのような。
―そんなすてきなものじゃなかった。でもきっと、なにかを待っていたんだろうね、自分なりに。
―なにを待っていたの?
Iの髪に車の光が移って行く。
―もうよくおもいだせないけど、たぶん、やすらかな自分をかな、へんな言い方だね。
―そんなことない。私はもっとだめだったから。
―でもなにも来なかった、たぶん。
祝祭は遂に来なかったのかと、あらためておもう。
こまかな雨が行く人の肩をぬらしている。
―それでもなんとかなったんだね。こうしているから。
いつからか祝祭を待つおもいは消えた。あるいは祝祭も前夜も、知らぬ間に過ぎて行ったのかもしれない。
二人が、というより二人を含む何人かがともに大きなテーブルを囲んで学んでいたころから、もう遠いところに来ていた。
―Yが亡くなったのか。
Iはだまってうなずく。
再会したK書店を出て、立ち話をしているうちに、Yが亡くなったことを伝えられた。Aは彼の死を知らなかった。
―いい人ははやく逝ってしまう。
言語学のほとんどすべてをを教えてくれたCも早く逝った。塔と橋のある古い都市をこよなく愛したC。彼が書き残したものの中に
「カルパチアの月」というのがあった。
彼は記す、会議を終えてキエフを発し、カルパチアの山に月と教会を見て、ひたすら西へ向かい、スロバキア、モラビア、ボヘミア
を過ぎ、遂に「黄金のプラハへと着いた」と。彼の青春であったプラハ。
あれほどの言語を自在に駆使しながら、彼からもうその逸話を聞くこともできない。新聞は 彼の死を、小さな見出しで言語学の天才
と報じた。
夕ぐれにはまだ時間があるのに、イルミネーションが灯り始めた。雨がこまかく降っている。M百貨店も右手前方にあかるく光って
いる。
―帰りにコーヒーを飲んでいかない?
手前の新しそうな店を見ながら、Iが言った
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