11 Paul Adrien Maurice Dirac
ディラック
岡潔の本をあこがれを持って読み続けたときがあった。発見のよろこび、記述するよろこび、かけがえのない友情。中谷治宇二郎の 存在。湯布院での会話。サイレンの丘越えて行く別れかな。中谷が岡に送った最後の句。 Iに話してからあと、Aはひたすら勉強した。書きたい想念が次から次へと沸いてきた。それをパソコンに打ち込み、自分の Web ページに送った。そうすれば手元になにも残さなくていい。手元に置いたものは、これまでそうだったようにやがて散逸する。今度だ けは彼は存続を望んだ。みずからの記述の跡を記録しておきたいとおもった。 夜もひたすら書き、休日もひたすら書いた。組ひも理論の大槻知忠は tex 上で考えると言ったが、そんな感じだった。 考えるための資料が手元にはほとんどないので、休日になると図書館へ行った。彼の住まいから駅とは反対方向へ進み、右折してゆ るやかな坂を上るとそのちょうど丘頂に当たる部分に図書館があった。門を入ると、ひろびろとした芝生の前庭があり、人々はそれぞ れのくつろいだ姿で休み、語らっていた。のどかで心休まる空間だった。建物は三階建てで片仮名のロの字形をしていて、真ん中は中 庭になっていた。中庭にはベンチと芝生があり、そこにも人々が適宜憩っていた。 Aは三階の北面の数学のコーナーに行き、そこで必要な本を読んで過ごした。住民なので借りることもできたが、それは最小限にし て、閲覧するだけにした。家では思考と記述に専念した。いい図書館でAにとって必要な本はほとんどそろっていた。関連しそうなと ころをくりかえし読んでメモをとった。わからない部分はそのままにして先へ進んだ。 或るとき、俣野博を読んでいたらその最後の方で、水や空気がミクロで見れば離散的であるように、将来は時間や空間もミクロでは 連続体でないことが明らかになるかもしれないと書かれていた。 流動する版画の時間も、離散的であるかもしれない。究極では、時間そのものも量子となるのか。 世界がもし離散的であるなら、言語のモデルとして球を考えるのは、王道だ。しかしもはや球にこだわることもない。ゆがんだ図形 でも、張り合わせた継ぎはぎの図形でもいい。モデルは、整合的であれば自由にとれる。カントールはほんとうにいいことを言った、 数学は自由だ、と。 疲れたときは雑誌を拾い読みした。或る日、最新号の後ろにあるバックナンバーを見ていたら、西島和彦の文があった。西島・ゲル マンの法則で知られる彼の死が報じられたのはしばらく前ではなかったか。時間があっという間に過ぎて行く。ひとつの時代が終わる 、それならばこの文はほとんど彼の遺作に近いのか。 西島は言う、ディラックはシュレディンガー方程式に多数の時間変数を入れて自由な電磁場を導き、朝永はさらに電子場に自由を与 えて、そこに空間内に独立する時間変数を入れて座標系に依存しない方程式を導き、超多時間理論を築いた、と。西島はさらに進めて ディラックによれば、未来の超曲面C2のベクトルが現在と未来の二つの超曲面C1とC2とに依存し、そこに働く関数がC1からC2 までを積分することで与えられる、と記していた。 すなわち或る状態を閉ざされた時間で積分すると、未来のひとつの時間が確定し表記される。これは、漢字の図形に対して、内在す る閉ざされた時間を設定すると、ひとつの意味が確定することと近似する。ディラックの理論は言語へと延伸できる。言語は物理で表 記できる。Iに話したことそのものではないか。 Aは去年の春に行った新しい美術館でのモディリアニ展のことをおもいだす。 そのすこし前、館内の椅子のことが新聞に載ったことがあって、二人の話題になった。 ―新しい美術館には高価な椅子が置かれているらしいね。 ライナーの「山嶺」の店の窓に、早春の木立が見えていた。 ―どんな椅子なの? ―わからないけど、そこにすわると、自然にやさしいおもいになるとか。 ―そうなの? ―そんなふうになるといいかな。 彼はなかばそんなふうにねがっていた。 ―でもほんとうにそうなるといいわね。 もう少しで暖かい春が来る、そんな一日だった。 モディリアニ展には、S駅で落ち合い、都市線からはすこし離れていたので地下鉄で行った。彼は地下鉄が好きだった。 ―なんだかこわいくらいね。 S駅でエレベータがゆっくりと深く降りて行くと、Iはあまり乗りたくなさそうな顔をした。Iにはそんなところがあった。 地上に出ると春の光がまぶしかった。 展示はすばらしいものだった。 今おもえば、モディリアニという存在は、普遍的な言語を表記するひとつの予感だったのか。彼の画を見ていると、深い安堵に満た された。岡が言っていた発見がもたらす全身的な深いよろこびに似たものが、たぶんモディリアニを見るAの中にも生まれていた。
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