Saturday, 30 September 2017

To Winter 4 The eve

4 The eve
前夜
雨になりそうな天気だったが、Aは工芸展を見に行くのに、Iを誘った。  都市線をK駅で降りて簡単に食事を済ませてから、大通りへ出た。 ―このまえ一緒に来たのはいつだったかしら? Iは遠くをふりかえるように言う。 ―いつだったろう、ほかの人とは来なかったの? ―たまにはそうしたいけど、だめみたいね。  Aを見て彼女はほほえむ。  降りはじめたが、傘をさすほどでもない。 天使のやさしさで振る雨。 ―こんな日に誘ってわるかったね。 ―そんなことない。うれしかったわ。 以前よりあかるくなった彼女を見ると、ほっとする。 通りにはいろんな看板が見える。 左手奥にたしか老舗の海苔店がある。  ―今日はかえりに海苔を買いたいな。 ―海苔? ―少しだけいい海苔を食べてみたい。ほかにおかずもいらないし。 ―そんな食事ばかりなの? ―朝はね。夕食はちゃんとつくるよ。 通りの窓に、雨の都市で語らう人たちが映し出される。 工芸展はM百貨店で毎年秋に行なわれていた。 ―十日くらいで終わってしまうと、なかなか見に来れないものだね。 ―誘ってもらってよかったわ。 ―ひとりで来ようか、すこしまよったんだよ。 ―ありがとう。 傘をさす人はほとんどいない。  二人が再会して、三度目の冬がまもなく来る。こんなにしばしば会うようになったのは、比較的最近のことだ。  AがG市に移ってからはS駅に出やすくなったので、むかしよく行っていたK書店にまたときどき出かけるようになった。そこでI と再会した。  車と人がしだいに増えてきた。  中心街へ入ってくると、点灯した車のライトがまぶしい。建物が高くなってきた。二人の頭上には、はなやかな、赤と紺の地に金で 縁取りされた小旗が歩道に沿って飾りつけられ、それがずっと先まで続いている。 ―祝祭の前夜のようだね。何に対しての前夜だったのか、自分がその中にいるとおもった日々が、かつて確かにあった。 ―前夜? ―そう、前の日の夜。 ―クリスマスのような。 ―そんなすてきなものじゃなかった。でもきっと、なにかを待っていたんだろうね、自分なりに。 ―なにを待っていたの? Iの髪に車の光が移って行く。 ―もうよくおもいだせないけど、たぶん、やすらかな自分をかな、へんな言い方だね。 ―そんなことない。私はもっとだめだったから。 ―でもなにも来なかった、たぶん。 祝祭は遂に来なかったのかと、あらためておもう。 こまかな雨が行く人の肩をぬらしている。 ―それでもなんとかなったんだね。こうしているから。  いつからか祝祭を待つおもいは消えた。あるいは祝祭も前夜も、知らぬ間に過ぎて行ったのかもしれない。 二人が、というより二人を含む何人かがともに大きなテーブルを囲んで学んでいたころから、もう遠いところに来ていた。 ―Yが亡くなったのか。 Iはだまってうなずく。 再会したK書店を出て、立ち話をしているうちに、Yが亡くなったことを伝えられた。Aは彼の死を知らなかった。 ―いい人ははやく逝ってしまう。  言語学のほとんどすべてをを教えてくれたCも早く逝った。塔と橋のある古い都市をこよなく愛したC。彼が書き残したものの中に 「カルパチアの月」というのがあった。 彼は記す、会議を終えてキエフを発し、カルパチアの山に月と教会を見て、ひたすら西へ向かい、スロバキア、モラビア、ボヘミア を過ぎ、遂に「黄金のプラハへと着いた」と。彼の青春であったプラハ。 あれほどの言語を自在に駆使しながら、彼からもうその逸話を聞くこともできない。新聞は 彼の死を、小さな見出しで言語学の天才 と報じた。 夕ぐれにはまだ時間があるのに、イルミネーションが灯り始めた。雨がこまかく降っている。M百貨店も右手前方にあかるく光って いる。 ―帰りにコーヒーを飲んでいかない? 手前の新しそうな店を見ながら、Iが言った。

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