Saturday, 30 September 2017

To Winter 2 Print

2 Print
版画
―いまの仕事はどう? 秋の光を受けて、Iがたずねる。 ―ずっとかどうかわからないけど、たぶん当分のあいだは続けるとおもうよ。 都市の雑踏もここまではとどかない。Iと会うのはいつのまにかこの場所が多くなった。  歩道から数段の階段を上がると色あせたガラス戸に明るい室内が見え、ペンキの凹凸がそのままに残る深緑の木枠の窓の向こうに、 おだやかな秋の光が落ちている。 奥の壁にはがきほどの小さな一枚の画の複製が掛かっている。クレヨンを細かく動かして描かれたアーノルフ・ライナーの「山嶺」 。 山の霊気が伝わってくる。 Aはむかしときどきここでお茶を飲んだ。入口を入った先の窓際のテーブルが空いていれば、そこにすわった。G市に住むように なって、またここをおとずれるようになった。 Iとは同年で、むかし同じ研究室で学んでいた。ことばの端々にこころやすさが残っていて、会っていると 二人の日々の疲れがやわ らぐようだった。 i―そっちはどうなの? 前にもしたような質問を繰り返す。 ―私はいまの仕事を続けるとおもう。私に合っているし、勉強したいこともまだあるから。 彼女は会計の細かな分野を勉強している。 ―それよりこのあいだ帰りに話してくれた版画の話を、もう一度してもらえない? 二週間前にやはりここで話したあと、S駅までの道すがら、Aが少し話しかけたことだ。 ―版画が動いて見えたんだっけ? ―そう、あのときはかなりおどろいた。前にも言ったけど、その版画はむかし、一緒に働いていたKが送ってきてくれたもので、ずっ と封筒の中に入れたままにしてあった。花火の版画で、こまかな技術はぼくにはよくわからないけど、たぶん切り絵のようにして版を 作って、そこに油っぽい絵の具をつけて、幾回か刷り重ねて作ったのかな、その幾重にも重ねられた紺一色のグラデーションで花火 の 打ち上げが描かれていて、それを今のところに越してきてから、台所の横の壁の上のほうに、額に入れてピンで留めておいた。日曜日 の夕方近くだった。ソファに腰掛けてなにげなくその版画の方を見上げると、すわっているから見上げる感じになるんだけど、そうす ると電気をまだつけてなかったからすこしうす暗いその台所の壁面の版画の中で、花火がつぎつぎに打ち上げられていく。花火がゆっ くりと暗い空に上っていってしずかに大きく開く。続いてその下方で淡く白い花火が開き、そのさらに下方で菊のような花火が開く。 さらに後方を別の花火が上っていき、上空で細かく飛び散るように開花する。打ち上げは見ている間中いつまでも続き、絶えることは ない。幻想的というのか、呆然とした、そのときは。 ―それは初めてなの? ―そう、むかしその手紙をもらって封筒から出したとき、なんだか単純な版画だなとおもって、そのまままた封筒に戻してしまった。 ただ左下すみに刷り番号が2/100と書いてあったから、そのことはよくおぼえている。G市へ引っ越してきて、荷物を整理してい るとき版画があるのに気がついて壁に掛けることにした。それからでももうかなり経っている。それでこの間初めて、画が動くのを 知った。 ―実際に見てないからわからないけど、よく言われる錯視とかそういうのじゃないの? ―そうかもしれない。大きくいえばきっとそういうことなんだろうけど、実際に見えると不思議な感じがするよ。 ―一度見たいわ。 ―歓迎するよ。ちらかっているけど。 去年の冬、彼女は一度彼の住むG市にやってきた。町を見においでよと、Aが誘ったのだ。そのときブリキ屋の場所も教えた。北に 見える青緑色の建物群やしずまり返った広い道路とその上をきしんで音立てて過ぎて行く路面電車を見せてやりたかったからだ。 ―時間の感じや光の入り具合や、いろんなことが重なってそうなるんだろうけど、そんなことこれまで考えたこともなかったから、ほ んとうにおどろいた。おおげさに言えば、画は何を表わしているのか、わからなくなった。 ―そんなことが起こるのね。 彼女は仕事については毅然とした姿勢を示しながら、日常的なことに対してはときに無邪気ともおもえる反応を示した。かつてのI とはそんなに近くで話したりしたことがなかったので、はじめのうちはとまどったが、それもいまはもう慣れた。  外はおだやかな日ざしの秋の午後になっていた。この何日間か風の強い日が続いたが、それも今日はおさまった。Aはこの数日仕事 場で午後の荷出しまでの間、久しぶりに風除けのビニール幕を一杯に引いてすごした。そうしないとこまかい木の葉やごみが倉庫の中 に入ってきてしまうからだ。いつのまにかそんな季節になっていた。 ―ね、また美術館に行ってみない? Iが学生のころのように言った。

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