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Monday, 5 May 2025

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 版画     里行

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背の高い建物群が青緑色に見える。都市線の高架の下を南北に広い道路が走り、そこをゆっくりと路面電車が進んで行く。駅を降りて歩道をすこし南に行くと、Aの住まいに着く。一階はブリキ屋で外付けの階段を上った二階に住んでいる。物置のように使われていたところを住まいにかえただけの殺風景な部屋だが、窓が道路に面した東と、駅の方の北に取ってあって明るい。彼が初めてこの駅で降りたとき、曇り空の下にくすんだ高い建物が背景となった風景になんとなく惹かれて、歩き始めてすぐに目についた貸家の張り紙のままに、「トタン・ブリキ製造」と看板があるガラス戸を開けて、その場で部屋を借りることにした。駅からここまで来る途中の路面電車の中継基地とでも言うのか、そこから道路に向かって電車が出て行く光景が今も初めて見たときのように好きだ。線路は赤く錆びていて、車輪の当たるところだけが、銀色に光っている。電車はいつも道路に向かってカーブしていくときにギシギシときしんだ音を立てた。

彼はここから都市線に乗って仕事に行く。仕事は倉庫での仕分けで、見た目ほどの力仕事でなく、作業は明確だ。乾物系の食料品と日常の家庭雑貨を注文先の伝票に合わせて仕分けして台車に載せていく。納入先は町のスーパーなどが主だ。倉庫の中は夏でも涼しいくらいだが、その代わりに昼休みの日光浴がなんとも快い。ときどきそのためにこの仕事で働いているのかとおもうくらいだ。年上の同僚のSとは気が合っていて、なんでも気楽に話せる。

―いまどきブリキ屋とはめずらしいね。

住まいの話になったとき、Sがなんだかなつかしそうに言った。

―いや私が勝手にそう言っているだけで、最近は銅板をたたいていることが多いです。

―というと、お寺の屋根かなんかかな。

―それは知りません。いつもおそくまで仕事をしてます。でもきっとそうかもしれません。

主人とふたりの若者が黙々と仕事をしている。ときどき裏のトラックに出来上がったものを積んでいる。

―それでその町が好きなのか。

―いい町ですよ。ずっと住んでいてもいいくらいです。

―おれはもうずっといなかに住んでいるから、都会はだめだ。

―都会といえるほどじゃないですけど。

―でも高い建物があるんだろ。

―駅のむこうに。どうしてそうなったのか、高架線のむこうは高い建物なのに、こっちはむかしのままの家が多くて。そこを路面電車がきしみながら進んで行くんです。

―そこをずうっと行くと古本屋街に着くんだったな。

―そう、それもよくて。

午後の休憩のときの会話。あと一息で一日が終わる。

―こないだ、彼岸のものを入れたとおもったらもう十三夜か。

納入品で季節の推移がわかる。

―Aさん、片見月はいけないというのは知ってるかい?

―一応。十五夜をやったら、十三夜もやらないといけないということでしたっけ?

―そう、若いのによく知ってるね。

 もうそんな年でもないと、Aはおもう。

Sは五十代後半、いろいろなことをよく知っているし、人生をたのしみながら生きている。春は花見、秋は紅葉を奥さんと見に行く。それをまたたのしそうに話してくれる。釣りも好きで、よくわからないAに、こまかく話してくれる。

―しかし釣りも仕事をしてないと、おもしろくないな。

―そうですか。

―まえに、自分の仕事を廃業したとき、毎日釣りをしたが、あまりおもしろくなかった。

Sはむかし電気店をしていたが、それをやめてから、いくつかの仕事を経て、いまの仕事となった。そのへんのこともよく話してくれる。船のロープを作っている会社で働いていたことや、トラックの集積場で働いていたことなど。どの話もいつも淡々と話してくれる。

―船のロープってどういうのですか?

初めてその話を聞いたとき、まっさきにたずねたことだった。

―そりゃあ、いろいろさ。それを注文にあわせて切っていく。これがなかなかたいへんでね。たとえば荷揚げ用のロープとかさ。そういうのさ。

ふたりはこうして倉庫に行き着いたのか、とAはおもった。

 

―いまの仕事はどう?

秋の光を受けて、Iがたずねる。

―ずっとかどうかわからないけど、たぶん当分のあいだは続けるとおもうよ。

都市の雑踏もここまではとどかない。Iと会うのはいつのまにかこの場所が多くなった。

歩道から数段の階段を上がると色あせたガラス戸に明るい室内が見え、ペンキの凹凸がそのままに残る深緑の木枠の窓の向こうに、おだやかな秋の光が落ちている。

奥の壁にはがきほどの小さな一枚の画の複製が掛かっている。クレヨンを細かく動かして描かれたアーノルフ・ライナーの「山嶺」。山の霊気が伝わってくる。

Aはむかしときどきここでお茶を飲んだ。入口を入った先の窓際のテーブルが空いていれば、そこにすわった。G市に住むようになって、またここをおとずれるようになった。

Iとは同年で、むかし同じ研究室で学んでいた。ことばの端々にこころやすさが残っていて、会っているとふたりの日々の疲れがやわらぐようだった。

―そっちはどうなの?

前にもしたような質問を繰り返す。

―私はいまの仕事を続けるとおもう。私に合っているし、勉強したいこともまだあるから。

彼女は会計の細かな分野を勉強している。

―それよりこのあいだ帰りに話してくれた版画の話を、もう一度してもらえない?

二週間前にやはりここで話したあと、S駅までの道すがら、Aがすこし話しかけたことだ。

―版画が動いて見えたんだっけ?

―そう、あのときはかなりおどろいた。前にも言ったように、その版画はむかし、一緒に働いていたKが送ってきてくれたもので、ずっと封筒の中に入れたままにしてあった。花火の版画で、たぶん切り絵のようにして版を作り、そこに油っぽい絵の具をつけて、幾回か刷り重ねて作ったのかな、その幾重にも重ねられた紺一色のグラデーションで花火が濃淡に描かれていて、それを今のところに越してきてから、台所の横の壁の上のほうに、額に入れてピンで留めておいた。日曜日の夕方近くだった。ソファに腰掛けてなにげなくその版画の方を見上げると、すわっているから見上げる感じになるんだけど、そうすると電気をまだつけてなかったからすこしうす暗いその台所の壁面の版画の中で、花火がつぎつぎに打ち上げられていく。花火がゆっくりと暗い空に上っていってしずかに大きく開く。続いてその下方で淡く白い花火が開き、そのさらに下方で菊のような花火が開く。さらに後方を別の花火が上っていき、上空で細かく飛び散るように開花する。打ち上げは見ている間中いつまでも続き、絶えることはない。幻想的というのか、呆然とした、そのときは。

―それは初めてなの?

―そう、むかしその手紙をもらって封筒から出したとき、なんだか単純な版画だなとおもって、そのまままた封筒に戻してしまった。ただ左下すみに刷り番号が2/100と書いてあったから、そのことはよくおぼえている。G市へ引っ越してきて、荷物を整理しているとき版画があるのに気がついて壁に掛けることにした。それからでももうかなり経っている。それでこの間初めて、画が動くのを知った。

―実際に見てないからわからないけど、よく言われる錯視とかそういうのじゃないの?

―そうかもしれない。大きくいえばきっとそういうことなんだろうけど、実際に見えると不思議な感じがするよ。

―一度見たいわ。

―歓迎するよ。ちらかっているけど。

去年の冬、彼女は一度彼の住むG市にやってきた。町を見においでよと、Aが誘ったのだ。そのときブリキ屋の場所も教えた。北に見える青緑色の建物群やしずまり返った広い道路とその上をきしんで音立てて過ぎて行く路面電車を見せてやりたかったからだ。

―時間の感じや光の入り具合や、いろんなことが重なってそうなるんだろうけど、そんなことこれまで考えたこともなかったから、ほんとうにおどろいた。おおげさに言えば、画は何を表わしているのか、わからなくなった。ほら、あの日光の眠り猫だっけ、あれを彫った有名な彫刻家の話をむかし少年雑誌で読んだことがあった。それは、たしか、お寺の鐘突き堂のまわりの柱に龍の彫刻をした話だ。その彫刻家の龍は荒削りで、これでいいんですかなんて言われて。別の彫刻家の龍は、まさしく龍らしく彫られていたんだ。それでそれを実際にお堂の柱につけて遠くから見ると、眠り猫の彫刻家のは、すばらしい昇り龍となって見えた。別の龍はまるでドジョウかなんかみたいにのっぺりとしていてだめだった。そんなことをおもいだした。

―或る距離からみると初めてそのものがわかるということね。展覧会なんかでも、或る位置からみるとほんとうに浮き出して見えたり、遠近がでていたりするわ。芸術家はほんとうにすごいのね。

彼女は仕事については毅然とした姿勢を示しながら、日常的なことに対してはときに無邪気ともおもえる反応を示した。かつてのIとはそんなに近くで話したりしたことがなかったので、はじめのうちはすこしとまどったが、それもいまはもう慣れた。 

 外はおだやかな日ざしの秋の午後になっていた。この何日間か風のつよい日が続いたが、それも今日はおさまった。Aはこの数日仕事場で午後の荷出しまでの間、久しぶりに風除けのビニール幕を一杯に引いてすごした。そうしないとこまかい木の葉やごみが倉庫の中に入ってきてしまうからだ。いつのまにかそんな季節になっていた。

―ね、また美術館に行ってみない?

Iが学生のころのように言った。

 

 画家のKと一緒に仕事をしたのは、それほどながくはなかった。

郊外線の沿線に自動車の部品を調達する会社があり、AはそこでKに出会った。大手自動車メーカーの系列会社で、そのメーカーで作られるすべての自動車部品が納入されていた。勤務は交替制で、休日のない完全二十四時間体制だったが、ふたりとも若かったのでそれほどの苦痛は感じなかった。ふたりがよく話したのは、深夜明けの閑散とした門を出て、近くの食堂で朝食を食べてから帰るときなどが多かった。KはAよりすこし年上だった。

―石井鶴三を知っている?

Kはそんなふうに唐突にたずねてくることがあった。

―知らない。どんな画家?

―石井柏亭の弟で本来は彫刻だが、大菩薩峠の挿絵がよく知られている。

―中里介山。

―そう、それが新聞に連載されたときの挿絵で、馬上で花を仰ぐところなど、春そのものという感じだった。

 Kは石井鶴三になにか特別なおもいをいだいているようだったが、このときはそれ以上語らなかった。

 のちにAは偶然、石井鶴三のその新聞の挿絵を見ることがあった。

 丘陵のあるふるさとに住む母が体調をくずして、一時入院したことがあった。幸いにひどくはならずまもなく退院したが、その見舞いもあって早春に帰省したときのことだった。置いてあった町の広報をなにげなく見ていたら、旧家であったH家が、町の施設となって公開されることになったという記事が眼にとまった。古い街道に沿うH家は黒い塀に囲まれてうっそうとした木立が見える大きな屋敷だったが、記憶をたどっても、もうそこに人が住んでいる感じはしなかった。

 その街道からは、東にふるさとのなだらかな丘陵が見わたせた。亡くなった父に連れられて行き、ときに幼ななじみと遊んだ場所だ。かつては砂利道のさびしかった街道も、いまではきれいに舗装されている。一日、木々の芽吹きが美しい丘陵をながめながら、H家を訪ねた。門を入ると正面に母屋があり、その西側に蔵が一棟残されていて、旧家の資料がそこに展示されていた。二階にも上がれるというので急な階段を上がると、日常の什器類とともに古びた箪笥が二張りあり、その脇に古く黄ばんだ新聞が一束置かれていた。なにげなく見ると、その新聞小説欄が大菩薩峠の連載になっていた。挿絵はたしかに石井鶴三だった。Kが話したのと同一のものであったかどうかはわからないが、筆で簡素に描かれたその挿絵からは、花を仰ぐ馬上の人に花びらが音もなく散っていた。

 抽象画が話題になったことがあった。

―ヴァザルリは?

 Aがモンドリアンの画について、そのかろやかな明るさがいいというようなことを話したあとだった。

―まったく知らない。

―四角い図形をびっしり並べて、それが少しずつ変化していく、そんなのを描いている。

 Kはこんなふうに言って、雑誌「みづゑ」などをよく見せてくれた。

 Aはゴッホが好きだった。死の三年前の1888年、アルルで描かれた「マウフェのおもいで」と記された桃の木の画は、マウフェへの深い敬慕とゴッホのつかのまの安息を示していた。ことばでそれらをどう表現すればよいのかわからない状態で、Aは話し続けた。Kは最後に、まるでみずからに語りかけるように、つぶやくように言った。

―画は決してうまくないのに。

 画はことばを超えたものだ。それだけはあさはかなAにもわかった。

 いろんなことをKは教えてくれた。Aにはそう感じられたが、Kにとっては特に教えるというおもいはなかったかもしれない。

初夏の或る日、美術展に一緒に行こうと誘われて、勤務明けのまま出かけたことがあった。運河の先に移転した美術館がその会場だった。よどんだ運河に真新しく白い消防船がひっそりと泊り、澄んだ空の高みを、鳶が無数に飛び交っていた。

会場に入るとその正面奥に佐伯祐三のリュクサンブールの並木の画があった。

―実物を初めて見た。

 たしかに佐伯はパリでないと描けなかったのかもしれない。

Kの応えは異なっていた。

―まんなかの空の白が飛び出てないか?ヴァルールがおかしいんじゃない?

―ヴァルール?

―色価。色固有の価値。それに画面がひび割れてるだろ、下地をよく作ってないから。

Kの中の魂と技の相克。物質によって物質でないものを表わす。それはAにとって、まったく未知のものだった。

 彼がどうしてあんなにいろいろと話してくれたのか、今ではすこし不思議な気もする。好奇心の旺盛な年下のものに、ていねいに接してくれたのだろうか。それとはすこし違うようにおもわれる。いつだったか、どうしてそんなことを話したのか、もう細かい経緯は忘れたが、詩の話になったとき、私はラフォルグの詩の中に出てくる、天使の優しさで降る雨、ということばが好きだと言ったことがあった。Kはそのまま聞きながしていたようにおもっていたが、或るとき彼からはがきが来て、その裏には冬の木立に霙が降りしきっている、モノクロームの版画が刷られていた。表の住所の下に小さなスペースを作って、そこに、天使の優しさで降る雨というのを描いてみた、と記されていた。Aがおもっていた優しい雨より、はがきの画面は暗く重かった。

 Aはラフォルグが好きだった。角笛の音、あるいは秋のために、人は恋死にすることがある。そんなラフォルグのことばが好きだった。そうしたことを率直に話したから、彼も応えてくれたのだろうか。

 Kの住まいは、郊外線のO駅のすぐ近くで、電車からもそのアパートの裏側が見えた。もう今はそこにはいない。Y市へ移ったことまでは知っているが、その後の住所はわからない。ときどき郊外線に乗って、O駅を出ると自然にKが住んでいたR荘の現れるのを待っているのに気づく。下二部屋、上二部屋の小さなモルタルのアパートで、今ではもうめずらしくなったトイレの換気扇が四本、電車から見えた。  
 Kの部屋は二階の東側で、予想していたよりきれいだった。少なくともAのところよりはずっと整頓されていた。六畳ほどの畳のまんなかに丸い木のテーブルがひとつ、その脇に小さなやはり木の本棚がひとつあった。画の材料が壁際にまとめて置かれていて、その脇に彼の作品が並んでいた。その多くは孔雀の画だった。それから小舟を描いたものがいくつかあった。

どうして孔雀の画を描いていたのかと、たずねたことはなかった。孔雀の画が彼の部屋にあるのは自然なことだった。ただ一度だけ彼にたずねたことがあった。孔雀のさまざまな姿について、たとえば一羽のもの、親子らしいもの、恋人らしいもの、真正面のもの、横向きのものなどについて、Aがよくそんなにさまざまな形が描けるねと言ったとき、彼はめずらしくAをさとすように言った、精確に見なければだれだって描けない、と。

 Kから花火の版画が送られてきたのは、ふたりがすでに自動車部品会社を離れてからあとのことだった。版画に添えられた手紙には簡単に、元気ですか、というようなことが書かれていた。住所はまだR荘だったが、返事はなにか書いて送ろうとおもっているうちにそのままになってしまった。やがて彼はY市に移り、Aも今のG市に移った。

 記憶の中のKはその後姿が印象的で、いつもなぜかふらふらしていた。まるで陽炎の中を歩いているような、地面にちゃんと足がついていないような歩き方だった。そんな格好でよく仕事がつとまったなと今ではおもうが、それはAの状況も同じだったかもしれない。

 

日曜はよく晴れたので、路面電車に乗って古本屋街に出かけた。広い幹線道路を十分も行くと古本屋街に入る。街路樹のイチョウは黄葉にはまだすこし早い。左右に並ぶ茶褐色の煉瓦の建物が古い石畳の歩道と調和している。むかしは都市線で来て、古ぼけたD駅で降り、石畳の歩道を南下して古本屋街に入った。だから今は楽になった。路面電車の停留所からすぐ南に、よく行く中国書籍のN書店がある。彼が行く本屋はだいたい決まっていたが、ときにはまったく新しいところに入ることもあった。しかしそのためにはいつもと違うエリアに出なければならない。ルーティーンで歩くのがいちばん楽なので、同じ本屋に寄ることが多くなってしまう。

N書店はこの辺の本屋の通例で間口が狭く奥に長い。通路は二つ、書棚は四列。いちばん奥に店員がいる。以前一度うろ覚えの本についてその在庫をたずねたことがある。そうしたら分厚い目録を黙ってぽんと渡されて、困ったことがあった。それ以来あまり不用意にたずねることはしない。ちなみにこのNは古書店ではない。置いてあるのはみな新刊である。入口付近は一通り見ているので今日は奥に入っていく。目がうす暗さに慣れるのにほんのしばらく時間がかかる。年取った大柄でめがねをかけた店員が、図書館へでも発送する荷物なのか、黙々と作業を続けている。置いてある伝票には未知の書名がならんでいる。Aは邪魔にならないようにして、そのすぐ前の本棚を見ることにした。本というのは運命的な出会いだから、なんとなくそこが見たいときはそれに素直に従うのがいい。彼は中段のちょうど目につきやすいところにあった、大冊のうすねずみ色をした表紙の甲骨文字の辞典に手を伸ばした。手に取るとずしりと重い。独特の油のにおいがする。今はむかしのようなほんとうの油印本というのは少ないのかもしれないが、中国の本には独特なにおいがある。中は黒い枠取りに縦に罫線が引かれ、そこに手書きの文字が印刷されている。文字のくずしはそれほどきつくない。手書き文字の中には、あまりに達筆すぎて読みにくいものも多いが、これならばなんとかなる。前書きがながいのでそのいちばん終わりを見てみると、この辞典を作るのに八年かかったと書いてある。それならば安いものだと、Aはおもう。そんなにながい年月をかけて、多くの人が係わってやっとこの本ができたのだ。たいした給料ではないが、それならば惜しむことはない。前書きのあとの目録に見出しの甲骨文字がならんでいる。本文を見ると「字形結構不明」「義不明」と書かれているのがかなりある。正直で好感がもてるので買うことにした。これだけ重いとこれから歩くのに不便だったが、帰りにもう一度寄るのもめんどうなので、そのまま買ってしまった。

向かい側の歩道をすこし南に行くと、古い二階立ての喫茶店がある。一階は事務所のようになっていて階段を上がると店になっている。昼食をとらずに出たので、簡単に済ますことにした。客はいつもほとんどいない。これで大丈夫なのかなとおもうが、続いている。窓から下を見ると、人々が急ぎ足で歩道を通って行く。本屋の人なのか、大きな竹製の荷台を付けた頑丈な自転車をこいでいく。ときおり路面電車が過ぎて行く。この風景はもう久しく変わっていない。彼はここで犀のようにひとり歩みさまよっていた。

彼が甲骨文字に興味を持ったのは、ずいぶん前になる。どんなものでも始原というのは心惹かれるものだ。彼もその例にもれない。ここから文字が始まった、それだけで充分な根拠となった。それからしばらくは案内や解説を読んですごした。或る概念とそれを表わす図形、そのデフォルメされた描出が時代とともに変化していく。しかしまもなくして、始原の前にはなにがあるのかとおもった。なにもない。なにもないところへ向かっていってどうなるのか。概念はだんだん単純化し幼稚になっていき、その先端にはなにもない。そうおもったらあまり続ける気がしなくなってしまった。それから引越しなどがあり、幾冊か集めた本も散逸しあるいは処分してしまった。それなのに最近また甲骨文字を気にするようになったのは、花火の版画のためだ。その画面の流動を考えているうちに、甲骨文字に戻ってきた。文字には時間が内在する。それを甲骨文字が示していたからだ。

版画の中で、花火はつぎつぎに打ち上げられ開いてゆく。それが無限に小さな版画の中で繰り返される。閉ざされた時間の中の出来事といってもいい。文字にもこうした閉ざされた時間が内在するとおもった。
 かつて王国維の観堂集林を見ていて、ひとつの文に出会った。それは「亙」という文字について書かれたものだった。この文字には「わたる」とか「永続する」とかという意味がある。王国維は言う、その甲骨文字において、上下に引かれた線は川岸であり、その間に一艘の小舟がある、小舟は両岸の間を行き来する、それで「わたる」とかその行き来が「くりかえし行なわれる」という意味になる、と。

王国維が漢字の中に時間が内在することを構造として明示したと感じたとき、その細密な推論に打たれはしたが、そのときはそのままに過ぎた。それが今、花火の版画によって白日のようによみがえってきた。

観堂集林を彷徨の日々にもとめたとき、ようやく理解しえた行文から、希望が一条の藁のように輝くことを予感していた。それが今現実になった。

観堂集林釈西において、西という字が鳥の巣であることを示し、史籒篇疏證では中という字が旗が風で同方向になびく状態であることを示す。鳥は日没に巣に帰り、旗は集団の中心で風になびく。まさしく文字の中に時間がながれていた。特に中の字形で旗が左右になびくものを同一の風では起こりえない現象だとして伝写の誤り、譌字とした。そうした鋭い見解に満ちていた。人間詞話でさらに言う、空中の音、相中の色、水中の影、鏡中の象、言に尽有りて意は無窮たり、と。言語の有限と意味の無限に触れる。また言う、「細雨流光を湿す」の五字は皆能く春草の魂を撮るものなり、と。王国維によって、詞は近代そのものであることを、Aは知った。

部屋に帰ってもとめてきた辞典を通読しているうちに、「育」の甲骨文字に惹きつけられた。この字は上が出産する女性の形象、下が生まれてくる子の形象ということがはっきりわかる。古形では従って子は逆さまに書かれている。資料によっては出産時の羊水を明示しているものもある。つまりこの字の原義は出産そのものだが、出産後はすぐに養育が始まる。従って「そだてる」という意味が出てくると記されていた。この文字に内在する時間という観念からすれば、出産の準備から出産そのもの、そして養育というふうにとることができる。気になったので、この字についてあらためて、王国維が小学においてもっとも服膺した段玉裁の説文解字注で見てみると、逆さまの子は善くないので、それを善くさせるべき意味を持つものだ、と書かれていた。その説明は、逆さまの子という部分に原資料の面影を残してはいるが全体としては抽象的で、原資料が持つ図形の直接的な意味とそこに内在するとおもわれる時間から、かなり離れてしまったものになっていた。

 

 雨になりそうな天気だったが、Aは工芸展を見に行くのに、Iを誘った。

 都市線をK駅で降りて簡単に食事を済ませてから、大通りへ出た。

―このまえ一緒に来たのはいつだったかしら?

 Iは遠くをふりかえるように言う。

―いつだったろう、ほかの人とは来なかったの?

―たまにはそうしたいけど、だめみたいね。

 Aを見て彼女はほほえむ。

 雨が降りはじめたが、傘をさすほどでもない。

―雨なのに誘ったりしてわるかったね。

―そんなことない。うれしかったわ。

 以前よりあかるくなった彼女を見ると、ほっとする。

 通りにはいろんな看板が見える。

―今日はかえりに海苔を買いたいな。

―海苔?

―すこしだけいい海苔を食べてみたい。ほかにおかずもいらないし。

―そんな食事ばかりなの?

―朝はね。夕食はちゃんとつくるよ。

 通りの窓に、雨の都市で語らう人たちが映し出される。

工芸展はM百貨店で毎年秋に行なわれていた。

―十日くらいで終わってしまうと、なかなか見に来れないものだね。

―誘ってもらってよかったわ。

―ひとりで来ようか、すこしまよったんだよ。

―ありがとう。

 傘をさす人はほとんどいない。しずかな秋の雨だ。

ふたりが再会して、三度目の冬がまもなく来る。こんなにしばしば会うようになったのは、比較的最近のことだ。

 AがG市に移ってからはS駅に出やすくなったので、むかしよく行っていたK書店にまたときどき出かけるようになった。そこでIと再会した。

 車と人がしだいに増えてきた。

 中心街へ入ってくると、点灯した車のライトがまぶしい。建物が高くなってきた。ふたりの頭上には、赤と紺の地に金で縁取りされた小旗が歩道に沿って飾りつけられ、それがずっと先まで続いている。

―祝祭の前夜のようだね。

何に対しての前夜だったのか、自分がその中にいるとおもった日々が、かつてたしかにあった。

―前夜?

―そう、前の日の夜。

―クリスマスのような。

―そんなすてきなものじゃなかった。でもきっと、なにかを待っていたんだろうね、自分なりに。

―なにを待っていたの?

 Iの髪に車の光が移って行く。

―もうよくおもいだせないけど、たぶん、やすらかな自分なのかな、へんな言い方だね。

―そんなことないけど、それはおとずれたの?

―来なかった、たぶん。
 祝祭はついに来なかったのかと、Iに言われておもった。

 こまかな雨が行く人の肩をぬらしている。

―それでもきっとなんとかなったんだね。こ

うしているから。

 いつからか祝祭を待つおもいは消えた。あるいは祝祭も前夜も、知らぬ間に過ぎて行ったのかもしれない。

 ふたりが、というよりふたりを含む何人かがともに大きなテーブルを囲んで学んでいたころから、もう遠いところに来ていた。

―Yが亡くなったのか。

 Iはだまってうなずく。

 再会したK書店を出て、立ち話をしているうちに、Yが亡くなったことを伝えられた。Aにはすでに、かつての交流はなかったから、彼の死も知らなかった。

―いい人ははやく逝ってしまう。

 ほんとうにそう思う。

ロシア語と言語学を教えてくれたCもはやく逝った。塔と橋のある古い都市をこよなく愛したC。彼が書き残したものの中に「カルパチアの月」というのがあった。

彼は記す、会議を終えてキエフを発し、カルパチアの山に月と教会を見て、ひたすら西へ向かい、スロバキア、モラビア、ボヘミアを過ぎ、ついに「黄金のプラハへと着いた」と。彼の青春であったプラハ。

あれほどの言語を自在に駆使しながら、彼からもうその逸話を聞くこともできない。新聞はその死を、小さな見出しで言語学の天才と報じた。

夕ぐれにはまだ時間があるのに、イルミネーションが灯り始めた。雨がこまかく降っている。M百貨店も右手前方にあかるく光っている。

―帰りにコーヒーを飲んでいかない?

手前の新しいそうな店を見ながら、Iが言った。

 

 Iが会計をしているあいだ、Aがトレイを運んだ。

―会計はいいの?

―誘ってもらったお礼。よかったわ。

―あまえていいのかな。

 Iがうなずく。

 歩道を行く人たちがなんとなく気ぜわしそうに見える。雨がすこし強くなったらしい。

―ひとりでは、こうした店にほとんど入ったことがない。

―私だってそう。でも、仕事の途中ですこし休みたいというときは入るわ。

―外の仕事もあるの?

―お客さまに会うことがあって、出向いていくこともあるから。

 会計処理という仕事の内容を知らないし、たずねても仕方ないかなというおもいが強い。

―それにしても工芸展はすごかったね。

―うーん、すごかった。

 Iもそこに力をこめた。

―伝統って連綿と続いているんだね。木工ひとつ見たって繊細きわまりないし、その総体を考えるとなんだか目がくらみそうだ。

 工芸展は彼がおもっていたより、はるかに大規模で多彩だった。来館者も多かった。

―誘ってもらってほんとうによかった。わたしは竹細工がよかったわ。

Iは今も美術が好きだった。

 ふたりが学んでいたのは、表象史というものだった。図像と歴史の中間みたいなものだ。

―あなたはたしか中央アジアのことをしていたわね。

―よくおぼえているね。

―祈りのことを発表したでしょ、あれをおぼえているの。

―そんなことまでね、きみはなんだっけ?

―今おもうとはずかしいだけ。ただ解説を読んでまとめただけだから。

―ベンヤミン?

―そう、よくおもいだしたわね。

なつかしさが帰ってくる。

―Yは?

―あの人はずっとまよっていたみたい、あとから聞くと。調査にもいくつか係わっていたし。自分ではのぞまないものもあったようだけど。でもいちばん最後に惹かれていたのは、沖縄の染織だった。

―染織?

―絣や紬のこと。

 工芸展に出ていた涼しげな芭蕉布、紅型の簡潔で細かい文様、八重山上布のやわらかな素朴さ、それらが眼に浮かんだ。

―そんなこと、あのころ話してた?

―あのころは、エジプトだった。

―そうだった。スイスで開かれてたエラノス会議。そこから出された本に聖猫が載っていて、見せてくれたことがあった。

―あったわね。私にもそれ、見せてくれたわ。

―それなのに、いつから?

―まだ元気だったころ、沖縄の甕のことで、N館に行ってたことがあったの。この辺ではそこがいちばん持っていると言ってたわ。その調査のあと館内の展示を見ていたら、ちょうど初夏のころで、一部屋を使って、沖縄の芭蕉布を特別に展示していて、すばらしいからと言ってそのあと、私を連れてもう一度見に行ってくれたの。その展示はほんとうにすばらしかった。淡い白か褐色のうすい地にこまかい地味な文様があって、その繊細さは私でも魅了されたほど。室内だから風が吹いたりしないのに、空調のせいかもしれないけれど、その芭蕉布がかすかに揺れていた。部屋全体がうっすらとあかるくて、ほんとうに海に囲まれているようなそんな感じだった。すばらしいだろ、そう言って、彼はじっと見ていたけれど、ほんとうにそれ以外言いようがないものだった。

 Iのことばから、なつかしいYの姿がよみがえってきた。しずかで端正な顔立ちはIの伴侶にふさわしかった。それはだれもが認めるところだった。いちばん優秀でいちばん熱心だったから、Yが研究室に残るのは自然なことだった。数年たって、Iが彼と結婚したことを伝え聞いた。そのころから、AとYは異なる道をとっていった。

―元気だったらいまごろ、きっといいものをたくさん書いていただろう。

―それはわからないけど、時間があまりにも少なかった。

 緻密なYには、それがたぶんもっとも必要なものだった。

―沖縄のことで、伊波普猶のことを聴いたことがある。もうそのころいろいろ読んでいたんだ。汝の足元を掘れ、そこに泉あり。

 ふたりとも本が好きだった。対象へのアプローチが微妙に異なっていたから、そのつきあわせがたのしかった。なつかしい本へのおもい。

あるとき、図書館に行ってふたりでエドワード・ムーアのヒンドゥ・パンセオンを調べたことがあった。初版は1810年、その1976年版。刊行はロサンゼルスの哲学研究協会。それはインドの宗教図像学の最初にして最も包括的な本だった。

またマックス・ミュラーが編集に当たり三十年以上をかけて刊行したSACRED BOOKS OF THE EAST叢書がデリーで復刻されていた。初刊行はオックスフォードで1887年までさかのぼる。そのゾロアスター教の巻をふたりで部分的に訳読した。

 ともに行動した最後の夏だった。ほかでは所蔵しない稀覯資料を調べるために、童話に出てくるような三角屋根のあるT文庫に行くことになった。
 丸いアーチの入口から閲覧室に入った。部屋の隅のカードの目録で検索し、Aは国内ではそこにしかない文献をコピーしてもらった。Yは請求した貴重文献を、使い込まれて黒くなった机で閲覧した。用事がすむと、急な二階への階段を上がった。文庫の刊行図書を見てみたかったからだ。窓からの光が中世のように室内をうすあかるくしていた。そこでふたりは同じ本を買った。館員がちょっと不思議そうに対応した。

 T文庫十五年史。くすんだ青の布製の表紙の400頁を超える大冊だった。昭和十四年刊行、編輯者は岩井大慧。中にある閲覧室の写真を見ると今とまったく同じだった。なにも変わらないことのとうとさ。値段はたしか300円、いつ付けた価なのか、信じられない安さだった。     

帰りはもう夕ぐれになった。柳並木が影を落とすしずかな通りを駅へ向かいながら、二人の若者はその日一日、すばらしく幸せだった。

そんな日々がたしかにあった。

―彼はきっと泉をみつけたのかもしれない。

 そういうおもいがAをおおった。

―ありがとう。そんなふうに言ってくれて。

私にはわからなかったから。彼はあなたに会えてよかった。

 Iの窓辺を人が無言で過ぎて行く。

―あなたとよく話していたわね。それは私も知っている。ちょっと中には入っていけない感じだった。

―そんなことはないけど、よく話していたことは、たしかだ。おぼえている?あの東側の土手の芝生。あそこがいちばんよかった。あたたかでしずかで。

―あなたには、どんなことをしてもかなわないって言ってたわ。私もそれは感じていたけれど。

―そんなことはまったくなかったけど、ふたりともただ語学が好きだったから。

 ふたりでサンスクリットを学んだことがあった。むずかしくなってからはめげてしまったが、辻直四郎のサンスクリット文学史とサンスクリット文法が必携だった。東洋学報に博士が整理したルイ・ルヌーの主要著作目録が載っていて、それは特別に大切なものだった。博士はその目録の冒頭でギーターを引用して故ルヌーをしのんでいる。

 「卿を友と思い、卿の偉大を知らずして、不注意より或いは親愛のゆえに、クリシュナよ、ヤーダヴァよ、友よと、なめげにわれの言えること・・・・・・・不死の君よ、われ今これを、思量を絶する卿に謝す。」

 窓の外を音もなく人が行き交う。

―ふたりとも語学が好きだったのね。

 Yはマックス・ミュラーへの献辞のあるマクドネルのサンスクリット辞典を見せてくれた。著者の序文は1914年、初版1929年。その1971年版だった。半世紀を越える継続がそこにあった。Aは、1985年第一版の蔵漢大辞典のことをYに伝えた。チベットと中国の共同の作業開始が1928年、半世紀をかけて完成した。その間に同志はつぎつぎに逝き、完成をみたのは六人だけだった。そうした絶えることのないきびしさがぼくらのあこがれだった。

―いろんなことができたはずだ、彼なら。時間さえあれば。そんなことだれにもわからなかったけれど。

―元気だった、私以上に。

―一度みんなでB美術館に行ったことがあったね。Yがいちばん熱心だった。

―あそこには聖猫がいたから。入口のところに。

 ガラスの入口を入ると正面に、たしかにいた。

―今もいるんだろうか。

 Iの顔がくもり、眼がうるんでいる。

―わるかった、いろんなこと、おもいださせて。

―いいの、こんなこと話せないもの、ほかの人には。

 Iはこれではきっとつらかったろう。

 それにずっと続いていた疑念を伝えるべきだった。

―ときどきは会ってもいいんだろうか?

 そうしたおもいはいまも続いている。

―あなたと会えたとき、安心したわ。むかしと変わらないし。それはほんとうにいい意味で。だからこれからもこういうときには誘って。

 Iがみなから好かれていたのは知っている。しかしそのころのAからは、Iは遠い存在だった。ふたりだけで話したことはたぶんなかったろう。Aはいつも自分のことで精一杯だった。ひとに優しいことなど、たぶん一度もなかった。だからひとから好かれることもなかった。Iに対して好きだとかいうおもいをいだくこともなかった。みんなに笑われたことがある大きいバッグに縦横めちゃくちゃに本がはいっていて、バッグはいつも傾いていた。彼の心の中もいつもそんなだった。

―性格だけは変えようがないから。生き方もかな、きっと。

 Iがすこしなごやかな表情になった。

 

 版画を描いて送ってくれたKのことをおもい返した。

 最後に連絡があったのは個展の案内で、はがきの裏側に描かれていたのは、中国かベトナムらしい小舟に笠をつけて一人がすわり、ランタンのような灯りが黄色く灯っているものだった。かつてKの部屋にも小舟の画があったから、それは彼の主題のひとつであったのかもしれない。会場はたしかY市だった。もうお互いに離れてからだいぶ経っていたし、Y市ではでかけるのも遠かったので、返事も出さないで過ぎてしまった。それ以後の連絡はなかった。

 あらためて彼の版画を見る。近くで見た画面は、紺の濃淡のみの簡略化された花火の打ち上げにしか見えない。下から三分の一ほどのところに水平な線が三本通っている。川面のようにも見える。そして幾本かの花火の上ってゆく軌跡と頂点での開花がある。中央やや左側にいちばん大きな花火がある。その下方に二つ、右上方に一つ。あと左上方と右下方に縦型の花火が一つずつ。花火はみなで六つだった。

 これが夕方のというか、そのころの光の具合のときに、花火がつぎつぎに打ち上げられてゆく。Kはそこまで計算して版画にしたのか。それとも花火の本質を描けばその結果としてそうなるのか。Aにはこまかなことはなにもわからなかった。ただすべてはそのように進んだ。

画の刷り番号は2番。そこにAへのおもいのすべてがしるされていた。今はどうしているか。何を描いているか。

 版画の右下に書かれた細いペンのサインを見ながら、そのころKが言ってくれたことをおもいだした。どんなときでも自分の名まえを書くときはこの上なくていねいに書かなくてはいけない、と。或る画家は自分の名まえを書くのに一時間か、それほどながい時間をかけた、そんなことを教えてくれた。

 

 仕事を終えて、駅から家に帰る歩道の隅に、鳥がうずくまっているのを見つけたのは一週間前だった。秋雨が何日間か続き、町は灰色にくすんで見えた。高架線の向こうの高い建物群が雨の中で中世の塔のように見えていた。高架線をわたる電車がこもったような低い音で過ぎると町は一瞬しずまり返ったようになる。

 鳥はもう死んでいるのかとおもったが、手でその背から腹に触れると、こわばった体が小刻みに動き、首を揺らした。まだ生きているとおもい、両手で抱き上げると、鳥の膨らんだ胸のかすかな鼓動がてのひらに伝わってきた。両目を閉じたまま、動きは鈍い。寒さのためか、餌を得られなかったのか、胸の毛はまだ雛の柔らかい産毛を残したままだった。独特の頭の霜降りの毛からすぐにモズとわかった。たぶん夏の終わりに生まれたばかりで、尾羽はすでにながく伸びていたが、まだ独り立ちして二ヶ月たったかどうか、そんな鳥だった。

 Aは小さいころ、何度か鳥を飼った。正確にはAの母が、落ちた雛や傷ついた鳥に餌をやって元気になると放してやったのを、一緒に世話したことがあった。丘陵に近かったせいか、小鳥たちはたくさんいた。鳥の名人という年寄りもいた。一度、ヒバリかオナガか、弱ったままで、充分に普通の餌を食べない鳥の世話をしたとき、その名人の家に餌を買いに行った。家は普通の民家で、玄関から声をかけると、何度か友達同士で見に来たので顔だけは知っている小柄な老人が出てきた。Aが小鳥の状態を放すと、老人はいったん奥に入り、戻ってくると、手にたぶん老人が調合した餌を持っていた。Aの前で老人はてのひらにすこし餌を出してそれをなめ、うん、これでいいといったふうにして渡してくれた。この人はほんとうに名人なのだ、そうおもったことを、今でもはっきりとおぼえている。そういう人が町の片すみにひっそりと住んでいることに対して、Aは言い知れない安堵のおもいをいだいた。その気持は今もそのまま続いている。自分ではそうでないと肩肘張っても、どこか弛緩した生き方をしてきた自分に対して、そうした持続したつつましやかさは、Aにはどんなことをしてもまねることができないようにおもわれた。

てのひらに鳥の重みを受けたまま、Aは住まいに急いだ。鳥は右目を開けてくれたが、左目は閉じたままだ。小さいころから、鳥は目を閉じたらだめだと聞かされていた。にび色のまぶたが左目をおおい、そちら側から見ると死んだように見えるが、てのひらにはまだ胸の鼓動が続いている。水をやって搔き餌をやらなくてはとおもう。とりあえずは、小麦粉か米粒かで代用するしかない。幸い先日八百屋で、安い出たての小さいみかんを買ってきてある。それはたぶん好きなはずだ。すぐだからがんばれよと、彼は急いだ。

部屋に入ると、隅の方に新聞を敷いてその上に載せた。足が弱っているのかうずくまっている。あまりいい兆候ではない。目を見るとどうにか左目も開けてくれた。部屋の暖かさがいいのかもしれない。水をスプーンでやるがまったく飲もうとしない。顔を背ける反応もしない。モズのくちばしは細く鋭い。こんなに細いものなのかとあらためておどろく。たしかに虫をついばむか、果物をつつくのにはいいが、ふつうに搔き餌を食べるのにはどうか、そうおもわせるくらい細い。小麦粉を練って指先につけてくちばしに持っていったが、食べようとしない。ためしにくちばしを開けてみようとしたが、ぴったりとかたく閉ざしたままだ。みかんを切って持っていったがこれもだめ。食べる力さえないのか。それでも万が一飛び立つと困るので、とりあえず、スパゲッティをゆでるときに使う金ざるでふさいでおいた。モズの長い尾羽がすこし曲がって窮屈そうだがしかたない。しばらくそっとしておくことにした。さっきに比べれば、目を開けて生きている。それが続けばなんとかなる。

自分の夕食を準備しながらも、鳥の様子が気になった。その間に一二度羽をばたばたさせた。体が温まってすこし元気になったのかもしれない。

食事を済ませて、鳥にまた餌を与えようとしたが、今度は鳥があとずさりしたり、首を振ったりしてやはり食べようとしない。おまえにも意志があるのかとおもい、それはそれでいいことだとおもった。いい兆候だ。元気になったらどこに放そうかと、それが一瞬気になった。二つ割りみかんをもうひとつ金ざるの中に入れて、部屋の隅に置いた。野性があるならその方が勝手に食べられるかもしれない。今すぐに死ぬことはなさそうだ。

遠くで雷が鳴っている。これで雨もおさまったのかもしれない。

 

 翌朝起きると鳥はかなり元気になっていた。Aが起きる前から、もうときどき羽をばたつかせていた。みかんを見るとつついた痕がある。これならたぶん大丈夫だ。小麦を練ったのはやはり食べてない。今日どこかで搔き餌を買ってくるか。その必要もなく放してしまうか。朝食のパンと牛乳を手にしたまま、そんなことを考えた。小さくても生き物は生き物だ。パンをちぎって入れてみたが、これはやはりついばむ様子がない。果物がいちばん好きなのだ。

 スズメなど平和そうに見える鳥も、冬を越して翌年まで生き延びるのは一割ほどだという記事をどこかで読んだ。巣立ったらもはやひとりだけで生きなければならない。これは人間よりたいへんか、そうおもいながら家を出た。外へ出るともう肌寒い。この朝の風景に出会うと、世界はいいものだと、Aは単純だが真実そうおもう。みなどこかへ足早に動いてゆく。それぞれの当面のかけがえのない目的のために。Aにも倉庫の仕事がある。

この仕事は作業が明確で一定しているが、荷解きの内容は季節によってつぎつぎと変わる。新しい製品が出ると、従来品との案分が変わる。在庫と滞貨の管理がある。欠品の確認がある。Aたちの作業はその日のうちに一旦完了するが、仕入れ担当は適時に価格を見込んで補充する。倉庫の外には運送がある。着いたばかりのトラックの運転手が、はたから見ていてもぎりぎりの往復運転でまた会社へと戻って行く。仮眠を含めた二日がかりの運送はさらにきびしい。腰を痛めても血圧が高くても、定時には目的地に荷物を届けなければならない。それは絶対的なものだ。そこで仕分けされた荷物はふたたび運送にまわされる。定時になると荷物を依頼主に届けるトラックがまた続々と入ってくる。

伝票とベルトコンベアとダンボールの箱が、Aたちの仕事の対象だ。そのながれを迅速に処理していく。できるだけ余分な疲労を避けて、明日以降の荷物の移動も考慮に入れながら、荷物の群れを配置し荷解きしていく。こうして日々膨大な品物が流通する。それが実感できるのが彼は好きだった。

日々の中で、この仕事に生きる人たちがときおりのぞかせるはっとするほどの集中と洗練が、どこかでなお傍観者としての意識が消えない彼に、おまえはいったいどこにいるのかと問うことがある。穀物を専門に扱うPが、使い込んだ麻の前掛けをひらりとさせながら前を通って行くと、まるで横綱のような風格を感じてしまう。Aはいまも、そのほとんど脱色した紺の前掛けを自分もつけてみたいとおもうことがある。まったく似つかわしくなく、かなわない夢であることを知ってはいても、迷いなく真摯に生きる姿にあこがれに似たおもいをいだくのだ。

―Aさん、そっちの伝票送ってくれないか。

 飄々としたSの声が、リフトカーの向こうから響いてくる。昼までにさばく荷物が今日は多い。季節がまた移っていくなとAはおもう。

 

10

 Kが送ってくれた一枚の版画は、Aの中でこれまで棚上げされていたいわば生きる姿勢に、いつか決定的な重みを与えていることに気づくようになった。それは遠くまでたどれば、Iがおぼえていてくれた、中央アジアの祈りを考えていたことにもつながってゆく。これまであまりにも茫漠として、どこからどのように接近していけばいいのか、まったく手つかずであったか、あるいは怠惰を口実に避けてきたかもしれない彼自身の思惟の対象にこんどこそ真正面から向かいあう糸口が与えられたように感じた。

一枚の版画の中には、それがたとえ錯視であれ、つぎつぎと花火を開かせる、流動する時間が存在した。それは漢字の意味の生成において想定される構造的な時間とつながる。それとは別に、中央アジアの壁画の中で菩薩や衆生が祈るとき、画面の中に祈りの時間が感じられる。それは漢字の内部に構造的に存在する時間とは異なるものだ。画面全体が或る事象の最終場面を示している。祈りは過去から始まりその時刻に至った。言い換えれば閉ざされた時間の最後を画面は提示していた。

林巳奈夫は、殷周時代の青銅祭器に年代的秩序を設定する半世紀におよぶ作業の中で、角の有る神を龍以前の最高神と仮定した。ひとつの最高神の図像が悠久な時間の或る時期の最後の形態として登場する。合掌と有角神には共通して時間の堆積がある。

それらの果てで、すべての形において、時間もそのひとつの要素であるところの意味を有する言語の存在が問われる。それは困難だが明確な思惟の対象だ。

老子注で王弼は言う、万物万形その帰は一なり、何に由りて一を致すか、無に由りて一なり、すなわち一つ一つは無と謂う可し、すでにこれを一と謂う、豈に言無きを得んや、言有りて一有り二に非ず、一有り二有りて遂に三を生むをいかんせん、無に従うの有、その数は尽きるか、と。無からひとたび有が生ずれば、すべてはそこから言語として派生する、と記す。無と言語の問題。

王弼はさらに言う、周とは窮まらざる所無く、極とは一に偏よらずして逝くなり、ゆえに遠なり、と。めぐるものはきわまることがなく、ひとつにかたよらないものは遠くに行く、と記す。巡回と無限の問題。

王弼の注はふたつとも、言語の本質に係わり、Aの中では大鹿健一の仕事と重なった。

大鹿によれば、位相空間としてのタイヒミュラー空間の定義に始まり、サリヴァンとアールフォースの有限性定理を経て、幾何的有限群の極限として幾何的無限群が構成される、とする。簡約すれば有限から無限が構成される。

「言語は有限の語によって無限に文をつくることができる。」

これをひとつの予想conjectureとするなら、大鹿はその解決 solutionのためのひとつの強い方向を示唆する。

むかし、そんなこと考えるなと、敬愛するCから言われたことに対して、今は正面から向かい合うときが来た。それは、Kから送られてきた版画に起因するが、今はすでに版画を超えるものだ。ただ版画が彼に、内在する時間というものを厳然としたひとつの事実として明示してくれたことは、途轍もなく大きなことだった。それが錯視の一現象であったとしても、それはもはや彼にとって何の障害にもならなかった。なぜなら彼が求めていたのは、日常の具象を超えた普遍性であり、それを明確に表記することであったから。しかしそれは、当時Cとの会話においてしばしば話題となった言語の類型性や音韻の弁別性から帰納されるような、すなわち事象として存在する個別の言語から導かれるような言語普遍性language universals ではなかった。

今、事象と普遍を結ぶものとして図形が現われた。一枚の版画がそのことを教えてくれた。時間や祈りや感情など、すなわちすべての意味あるものを包括する言語はなんらかの図形へと集約され、その図形は幾何の方法で表記された。薄明のながい白夜が明けた。

夜はながかった。かつて彼は言語の表記に直接に集合論を用いようとした。ゲーデルの不完全性の証明があまりにも衝撃的であり、そこでは不完全というひとつの明確な意味が完璧に表記されていたからだ。しかしそこからの意味の拡張は基礎論にとっても困難であり、Aにはさらに無謀であった。

 言語についてほとんどすべてを教えてくれたCから、おまえは今何を考えているのか、とたずねられたことがあった。Aは当時竹内外史の集合論に心酔していたから、意味の中に存在する構造を集合論的に考えていますと、素直に話したことがあった。するとCは即座に、おまえ、そんなことはやめろ、それはウィトゲンシュタインなどがやることで、おれたちがやることじゃない、と言って、Aの進む方向を心底心配してくれた。ふたりが一緒に帰る電車の中でのことだった。Cはさらにことばを接いでみずからをふり返り、おれは結局、研究者じゃなかった、解説者だ、と卑下することなく言った。

―一度だけそのチャンスがあった。法則を発見したとおもった。言語における出現の頻度についてだ。それから二三日は調べまくった。すでにその法則は見つけられていたけどね。

 Cはそう言ってことばを止めた。年上だが彼はAに、年齢差や経験差を考慮することなく、彼の有する言語についての知見を可能な限り教えてくれた。言語にあるのは事実と法則、それが彼のすべてだった。Cはみずからそのいずれをも発見できなかったと明言していた。Aにはそのとき返すことばがなく、ただだまって受け止めるだけだった。

この法則のことはその後もずっと気になっていたが、あるとき蔵元由起の本を読んで、ほぼ明瞭になった。

 Cが言っていたのは、アメリカの言語学者、ジョージ・ジップによって発見された経験則かそれに関連するものだったとおもわれる。蔵元に従えば、ジップの法則とは、文学作品などに現われる語の出現頻度は逆べき法則に従うというものだった。例示された図ではシェークスピア、ダーウィン、ミルトン、ウェルズ、キャロルが見事な類似を示していた。特にウェルズとキャロルはほとんどまったく同一な出現頻度を示していた。二十世紀前半に発見されたこの卓越した経験則は、サンプルとなった著作を現代のコンピュータによって十万以上の頻度まで正確に解析し、不動の法則となっていた。

Cは事実と法則を追って、それを見出さなかった。そして或るとき突然の病いで逝った。言語学を愛した幾冊かの本を残して。最後の本の名は、言語学への開かれた扉、Janua Linguisticae Reserata。彼が言うように、扉は万人に開かれていた。ひたすら追うのであれば。

 Cが生きていれば、今またAに問うかもしれない。おまえは今何をしているかと。そしてAもまた同じように答えるだろう。事実ではなく普遍を追っています、こりることなくと。

 生きていれば、あの急な階段をのぼって、天井の低いテーブルでまた話していただろうか、Cよ。転注をめぐる研究の国境を超えたつながりの中で、再発見された転注論の貴重な原稿を損傷させないために、発見者みずからが飛行機に乗って届けてくれたことなどを。だから途方にくれるようにまずしかった私はどれほど勇気づけられたか、Cよ。駅前の路地を入ってすぐ左の、掘っ立て小屋のようだったあの店の名まえはカリフォルニア。ぼくらの決して悲惨ではなかった忘却の紀念に、今はそれを書き記そう。

しかしAは、Cの怒るような忠告を心から謝して受け止めても、違った方向をとり続けた。事実は彼の対象ではなかった。人間の事象である以上、すべては一度事実として顕現する。そこになんらかの法則が現われるかもしれない。しかしAはその方向を望まなかった。彼が求めていたのは、そうした事実の世界ではなく、架空の世界だった。それはたぶんこの世界をほとんどなにも説明しない。役にも立たない。それが冒瀆でないなら芸術に近かった。

言語における内的構造は、Aの場合、集合論から図形を経て、幾何へと行き着いた。すなわち時間もまたひとつの意味である普遍的な言語を表現したものとしての図形を、明確に表記するただひとつの方法として、彼は今幾何を選び、そこにもう迷いはなかった。

一枚の版画がそれらのすべてを導く原点に厳然として存在していた。

 岡潔が言っていたように、決定的なものはながい余韻を残す。Aは無性に町なかを歩いてみたくなった。かつて歩いたところを、いつもさまよってばかりいたところを、もう一度ゆっくりと歩いてみたくなった。

 古本屋街のあるD駅へ都市線で向かった。古ぼけたホームから階段を下りる。低い梁がながい間の埃にすすけ、階段は黒く縁が磨り減っている。製図学校や簿記学校の活字の多い広告が変わることなく貼られていて、ああまたここに来たと彼はおもう。

 改札を出ると夕ぐれの町が若者たちの姿をなかばシルエットにして、行き来させる。左側に売店がある。その前方のガード下に幹線道路が走り、道路を路面電車がきしみながら過ぎて行く。右へ行けば古本屋街。中央のガードの下に、つまり都市線の下に、運河がながれている。駅名と同じ古ぼけたD橋が架かり、よどんだ水面をときおり平たい荷舟が通って行く。むかしとなにも変わらない。橋の向こうは大きな交差点で、その向こうに灰色の高い学校がある。夕ぐれの中に点々と、まだ学んでいるのか灯りがともっている。これもむかしのままだ。橋に立って川面をながめていると、人々が絶え間なくながれて行く。橋はそういうところだ。とどまるところではない。Aはそこから運河をながめているのが好きだった。荷舟はどこまで行くのだろう。いずれ海辺近い港か集積場で荷を降ろすのだろうか。荷舟は時のながれを二重にするかのように、よどんだ運河の上をゆっくりと下方へと移動して行く。

運河の左手は駅舎で、右手は建物群の裏側になる。いくつもの看板が駅の方に向いている。東洋王者が構える姿を描いたボクシング・ジムのややゆがんだゴシックの看板はまだ健在だ。ほかの看板は記憶に残っていない。

 橋はもうところどころコンクリートが剥げ落ちている。古ぼけた町にふさわしい。錆びた鉄の欄干にもたれていると、今日は多いのかもしれない荷舟がまた橋をくぐって行く。

 もはや本屋街をさまようことはない。対象は私のうちにある。私はただこの運河をながめていればいい。遍歴は終わった。たぶん永遠にマイスターにはなれないだろうが、みずからの小さな仕事場で、日が落ちるまで作業をすればいい。すると仕事場の窓辺を聖者が通って行く。かつてそんなロシアの民話を読んだ。

 秋の日ぐれは早い。路面電車のヘッドランプがまぶしいくらいだ。黄褐色の窓に少ない乗客が照らし出され、古本屋街の方へ消えて行った。駅の売店がにぎやかな橙の光に包まれている。

 

11

 モズはだいぶ元気になった。しかし野性はAになつくことをしない。もう使わないかもしれないが、いつまでも金ざるに入れておくわけにもいかないので、金物屋で金属製の比較的大きな鳥かごを買ってきた。どこかに行けばむかしの竹ひご製の鳥の足になじむ鳥かごがあるのかもしれないが、そこまでのエネルギーはなかった。何の鳥ですかとたずねられたので、モズだと答えると、最近は都市にもかなり繁殖しているようですと教えてくれた。しかし生き残るのはたいへんだ。モズを住まいに持って帰った当初、胸や背に残る産毛が膨らんで、体全体が空気のすこし抜けたゴムボールのように不恰好に横長になっていたが、元気になるとその産毛が羽の下に隠れるようになり、体全体が細く引き締まって、若鳥らしく見えるようになった。餌は相変わらずみかんだけで、ほかのものは食わない。虫などを与えればいいのかもしれないが、それも面倒だ。みかんを鳥かごに入れるときは、ギャアギャア騒ぐ。野性はすごいものだ。そう簡単には人間に慣れない。そのほうがいいのかもしれない。しかしこれだけ元気になるともう放してやらないとかわいそうだ。都市の中で生きるか、それもそうだが、一度は野山に返してやろう。もしかしたらこいつはそれすらも知らないかもしれない。丘陵か大きな林かそうしたところがいいが、Aはとっさにはいい場所がおもい浮かばない。郊外線に乗るしかないかなとおもう。画家のKが住んでいたO駅をさらに北に行くと左手に丘陵が見えてくる。その辺のどこかで放してやるのがいちばんいいか。主人に対してそっけない鳥でもしばらく接していると親しみが湧く。モズという鳥は鈍いというか、そうぞうしいというか、そういう印象だ。近づいてもなかなか逃げない。人間などあまり気にしていないようだ。霜降りの毛がぴんぴんと立った頭部はやんちゃぼうずのような感じだ。いやだとギャアギャアけたたましく鳴く。これでも生き延びるのはたいへんなのだろうか。

 郊外線に乗れば久しぶりにKが住んでいたR荘が見られる。もしもまだ残っていればだが。あの古さではもうなくなっているかもしれない。トイレの四本の煙突のくるくる回る先端はロシアの教会の尖塔みたいだ。むかしCが教えてくれたロシア語。その縁で会話を教えてくれたロシア貴族の末裔だったM婦人。ロシア語には暗い母音と明るい母音があります。ヴォルガは暗いほう。そう言って何回も黒板に明暗の母音を書いて教えてくれた。母なる河ヴォルガを異国でおもい続けたMの、いまも耳に残る優美な発音。

あるとき、彼女がAに暗誦するようにと、青いボールペンのながれるような筆記体で書いてくれたのがレルモントフの詩だった。ミハイル・レルモントフ、彼の名はミハイルだった。あまりにもうかつだった。Aの学習用のロシア名はミハイル、M婦人が自分で好きな名まえをつけなさいと言ったからだ。

―ミーシャ、あなたはどこでそんな言い回しを覚えたの?

―これです、M。ティーチ・ユアセルフ叢書。

―どこでもとめたの?

―S駅のK書店。

 Mがレルモントフを選んだのは、それが名作だからだとばかりおもっていた。しかしレルモントフの名はミハイル。Aのロシア名と同じだ。Mはそれまで考えて与えてくれたのかどうか。今はもう聴き返すすべはない。レルモントフの詩、「一人、旅に立つ」。

 

12

 窓の下に雑踏が見える。S駅を降りて、ここはK書店に近い。

―それで版画はどうなったの?

 やっぱり気になるらしい。

―動いているよ、ほんとうに。

 土曜日に会うのはいつか習慣のようになった。

―ただそれにはもう慣れたというか、サブになった。中心がね、変わってきた。中国の周易という本に、「中心疑えば、枝分かる」ということばがある。ちょっと不正確だけど。それはね、中心にあるものを疑いだすと、際限なくばらばらになってゆくということらしい。ぼくには今までその中心がなかった。いつもふらふらしていた。それはきみもわかっていたかもしれない。能力の問題もあるかもしれないが、それだけでもないらしい。キルケゴールがね、むかしみたいだろ、こんなこと言うのは、彼がね、人間には二通りあると書いているんだ。「使徒と天才」という本の中で。使命を持った使徒と、芸術を持った天才と。芸術というのはちょっとぼくのへたな要約だけど。人はどっちかで生きるらしい。いいとか悪いとか、そういう価値ではなくて、それはもう決まっているんだ、たぶん生まれたときにね。もしかしたら生まれる前かもしれないけど。これからはぼくの解釈だよ、使命のある人はいいとおもう。それで生きる。もはや疑いはない。大きく言ったらね。そうじゃない人は、ぼくはみんな天才になるしかないとおもうんだ。もうほかにはないんだから。だから芸術を見つけなければならない、しかしそれはそう簡単には見つからない。むかしね、中央公論社の世界の名著ってあっただろ。あのソクラテスの巻だったかな、最初のカラーの写真のところに、ソクラテスの最大の難問は「汝自身を知れ」というのだと書いてあった。それはそんなにたいへんなことなのかとそのときおもったけれど、まさしくほんとうだと、今になっておもうよ。

 IはむかしのAを見るようにして見ている。

―それからね、ニーチェの巻には、断崖絶壁の海の写真があって、そこがニーチェは好きだったらしい。晩年になってそばにいる妹がかなしそうな顔をしているので、彼は言ったらしい。「ぼくらはこんなにしあわせなのに」だって。それで元に戻るけど、天才は天才でたいへんなんだ。芸術を見つけなければならない。しかしなかなか見つからない。それがこれまでの自分だった。

―それでみつかったの?

―みつかった。簡単に。版画が教えてくれた。花火がつぎつぎに上がっていく、そこに時間がながれているっていうこと、内在的な時間というもの。それにおもい至った、これが半分。これだけでは汝自身を知れにならない。もっとはっきりしないと。ようするに内在する時間はどこにあるのかと、考えてみた。版画の中にじゃないよ。もう版画からは離れている。そのときね、王国維という人が言った漢字の中に内在する時間というものとつながった。文字の中には時間がながれていると、ぼくは王国維を理解した。こうして時間と文字がつながった。大丈夫?

―大丈夫じゃないかもしれないけど、続けて。どうせ続けるんでしょう?

―悪いね、疲れているのに。それでここまでで三分の二。まだ自分の中ではっきりしない。

―はっきりしないってどういうこと?

―決定的じゃないってこと。さっきのことでいうなら、芸術になっていない。あるいは汝自身を知ってない。

―あと三分の一。ふう、がんばって。

―そこまでは比較的スムーズにいった。ところがその文字の形がわからない。もう漢字からは離れているからね。漢字では普遍性がないから。普遍的な時間、普遍的な文字、普遍的な形。それでその形がどうしてもわからない。ようするに時間を内在した文字はどこにどんな形であるのかがわからない。それで夜ずっとそのことを考えていて疲れてしまったので、コンビニへ飲み物を買いに行った。駅に近い方に一軒あるから。もう夜遅いんであたりはしんとしている。あの辺はまだそんなだ。それで明るいコンビニで飲み物を買ってなんとなく雑誌を見たら、その横にパンフレットが置いてあって、電子辞書の宣伝なんだ。おもしろそうなので一枚取って家に戻った。飲み物を飲みながらそのパンフを見ていたら、ふつうの電子辞書じゃもうだめで、付加価値をつけないといけないと書いてあった。あくまで一般用の辞書だから付加価値っていってもそんなに特別なものじゃない。今のぼくならこの辞書はテフが書けますなんて書いてあったら、たぶん買うかもしれない。

―テフってなに?

―テフはtexって書いて、ややこしい式なんかをちゃんと表記してくれるもの。

―でもそれじゃワープロ。

―あ、そうか、まあいいや、とにかく付加価値がないといけないんだって。そのときにね、まったく脈絡がないような感じなんだがとにかく、ひらめいたんだ。文字の形は球だってね。どうしてなのかな、とにかくそうおもった、文字は丸い球の形をしていると。それがとりあえず虚空に浮かんでいる。ほんとうはその虚空も定義しないといけないんだけど、それは後回しでいい。とにかくこうして文字の形が決まった。

―文字が丸いの?

―そう文字は丸い、っていうか言語は丸い。こんな簡単なことがわからなかった。

―言語が丸いの?

―そう、言語は丸い。そして最後のひとつ、これで終わりなんだけど、その丸い球がquantumであるということ。日本語では量子というのかな。

―量子?

―そう、物理学に出てくる最低限の物理量。ぼくが求めていた時間と言語は、物理学だった。

―それが結論?

―そう、それでほんとうに終わり。あとは作業をやるだけ。

―作業って勉強のこと?

―そう、そのことを記述する。ただひたすら記述すればいい。

―書いていればいいの?

―そう、ひたすら書き続ける。

―検証はしないの?物理はそうするでしょ?

―そう、ほんとうの物理学じゃないから。

―うその物理学?

 ふたりとも笑う。

―うその物理学じゃないよ。自由な物理学。そう、芸術。だからぼくは天才になった。

―天才ってそんなに簡単になれるの?

 話せるというのはすばらしいことだと、Aはおもった。

 

13

 岡潔の本をあこがれを持って読み続けたときがあった。発見のよろこび、記述するよろこび、かけがえのない友情。中谷治宇二郎の存在。湯布院での会話。サイレンの丘越えて行く別れかな。中谷が岡に送った最後の句。

 Iに話してからあと、Aはひたすら勉強した。書きたい想念が次から次へと沸いてきた。それをパソコンに打ち込み、自分のwebページに書き込んだ。そうすれば手元になにも残さなくていい。手元に置いたものは、本のようにやがて散逸し消滅する。今度だけは記録を望んだ。みずからの記述の跡を記録しておきたいとおもった。

 夜もひたすら書き、休日もひたすら書いた。大槻知忠はtex上で考えると言ったが、そんな感じだった。たぶん彼の数億分の一の内容でしかなかったが。

 考えるための本が手元にないので、休日には図書館へ行った。彼の住まいから駅とは反対方向へ進み、右折してゆるやかな坂を上るとそのちょうど丘頂に当たる部分に図書館があった。門を入ると、ひろびろとした芝生の前庭があり、人々はそれぞれのくつろいだ姿で休み語らっていた。のどかで心休まる空間だった。建物は三階建てで片仮名のロの字形をしていて、真ん中は中庭になっていた。中庭にはベンチと芝生があり、そこにも人々が適宜憩っていた。Aは三階の北面の数学のコーナーに行き、そこで必要な本を読んで過ごした。住民なので借りることもできたが、それは最小限にして、閲覧するだけにした。家では思考と記述に専念した。いい図書館でAにとって必要な本はほとんどそろっていた。必要なところを徹底的に読み考えた。わからないことは苦にならなかった。世界はもともと未知なのだから。わかったことだけでもありがたいというおもいだった。

 或るとき、俣野博を読んでいたらその最後の方で、水や空気がミクロで見れば離散的であるように、将来は時間や空間もミクロでは連続体でないことが明らかになるかもしれないということが書かれていた。この大局的な見方はAの考えを励ました。世界が離散的であるなら、そのひとつのモデルとして球を考えればいい。しかしもはや球でなくてもいい。ゆがんだ図形でも、張り合わせた継ぎはぎの図形だっていい。モデルは自由にとればいい。カントールはほんとうにいいことを言った、数学は自由だ。そう、自由に考えればいい。画家が自由に対象を切り取るように、自由に造形するように。そうすれば別の世界が見えてくる。

 疲れたときは雑誌を拾い読みした。或る日、最新号の後ろにあるバックナンバーを見ていたら、西島和彦の文章があった。西島・ゲルマンの法則で知られる彼の死が報じられたのはしばらく前ではなかったか。時間があっという間に過ぎて行く。ひとつの時代が終わる。それならばこの文章はほとんど彼の遺作に近いのか。

西島は言う、ディラックはシュレディンガー方程式に多数の時間変数を入れて自由な電磁場を導き、朝永はさらに電子場に自由を与えて、そこに空間内に独立する時間変数を入れて座標系に依存しない方程式を導き、超多時間理論を築いた、と。西島はさらに進めて、ディラックによれば、未来の超曲面Cのベクトルが現在と未来の二つの超曲面CとCとに依存し、そこに働く関数がCからCまでを積分することで与えられる、と記していた。

すなわち或る状態を閉ざされた時間で積分すると、未来のひとつの時間が確定し表記される。これは、漢字の図形に対して、内在する閉ざされた時間を設定すると、ひとつの意味が確定することと近似する。ディラックの理論は言語へと延伸できる。言語は物理で表記できる。Iに話したことそのものではないか。

Aは去年の春に行った新しい美術館のことをおもいだす。

開館間近のころ、館内の椅子のことが新聞に載った。

―新しい美術館に高価な椅子が置かれるらしいね。

 ライナーの「山嶺」の店の窓に、冬の木立が見える。いつか山にも行ってみたい。

―どんな椅子なの?

―わからないけど、そこにすわると、自然にやさしいおもいになるとか。

―そうなの?

―きっとそうだよ。

 彼はなかばそんなふうにおもっていた。

―でもほんとうにそうなるといいわね。

もうすこしであたたかい春が来る、そんな一日だった。

 しばらくして、その美術館にモディリアニ展が来た。S駅で落ち合い、都市線からすこし離れていたので地下鉄で行った。彼は地下鉄も好きだった。

―なんだかこわいくらいね。

 S駅でエレベータがゆっくりと深く降りて行くと、Iはあまり乗りたくなさそうな顔をした。Iにはそんなところがあった。

 地上に出ると春の光がまぶしかった。

展示はすばらしいものだった。

 モディリアニには、周易に言う「中心」があった。だからすべてが生き生きとして見えてくる。モディリアニの中心とは何であったか。それに答えるために、その展示は企画され、ひとつの仮説が提示された。プリミティブな原始的な造形。そこにモディリアニの確固とした原点があったとする。その当否は、Aにはわからない。しかしその中心がなんであれ、それがあったからこそ、彼の芸術は存在した。

 今おもえば、モディリアニという存在は、普遍的な言語を表記するひとつの予感だったのか。彼の画を見ていると、深い安堵に満たされた。岡が言っていた発見がもたらす全身的な深いよろこびが、たぶんモディリアニを見るAの中にもあった。

 

14

 Aは祈りというものが気になっていた。その宗教的な意味に対してではなく、言語的な図形としてのあり方について。祈りというものは現実のものを指示するものではない。「指月」の存在ではない。指し示すところに月がある、そういうものではない。祈りとは神や仏に対してなにかを伝えることととりあえずは言えるかもしれない。それでも田の神をまつるとか旅の無事を祈るとかになると、だんだん定義も不分明になってくる。Aはしかし、そうした歴史的なあるいは社会的な関係を考えていたのではない。言語の中で祈りというものが、ひとつの図形としてどのような形で、またどういう位置にあるのか、そのようなことを考えていた。

 版画に端を発した問いは、いつかもろもろの判断中止に追いやっていた彼の中の普遍への問いを、一度に眼前にばらまくような結果になった。時間がその中心にあり、それに付随して祈りの問題があり、それらの果てにすべてを意味として包括する言語の問題があった。Iに話したように、中心さえはっきりしていれば、もう現実との対応はほとんど気にならない。モデルを考えればいい。モデルはモデル内で完結している。それが現実からどれほど離れていようと、それはもう問題にならない。もしかしたら、しだいに現実に近づくことがあるかもしれない。まったく遠く離れてしまうかもしれない。もはやそれは問題ではない。どれくらいそのモデルを記述できるか。書き続けることができるか。それだけが問題になる。日常のこまかな言語現象をひたすら記述する記述言語学になぞらえれば、Aの行為は新たに記述されるべき一種の言語の提示だった。むかしAのことばに対して友人から、そうなるともう哲学だからと答えられて、話がそこで終焉したことがあった。言い換えれば、妄想なら自由にできる、そういうことであった。しかし今またそう言われたとしても、そういう場面にまた出会うことは少ないかもしれないが、Aはもうまったく気にならないだろう。使徒と天才の区別で言えば、使徒になれないものは、みずからの細い道を歩き続けるほかない。そうしたいからそうするのではなく、いつのまにかそうなっていただけだ。

励ましはあった。無文字社会を、あるいは現代の隔絶した地域に存在する伝達機能の生成と消滅を追い続ける川田順造は、パリでの若き日に公開審査で言った、「道は遠い、だがまだ日は暮れていない」と。

 モディリアニ展のあとのことだった。

春の嵐のような風が、早めに出てIを待っていた美術館の前庭のまだ植栽したばかりの細い木々の枝を、ときどきひどく揺らしていた。

館内の高価な椅子にもすわってきた。たしかにすわりやすかったが、ふつうの椅子でも充分かなとおもったら、急に外の風を感じたくなった。

―ごめんなさい、おそくなって。

 Iの短かい髪も風に揺れる。

―いいよ、ぼくはいつも早いんだから。

―よかったわね。それで椅子にはすわったの?

 たのしそうに問いかける。

―すわった、それほど高価な感じはしなかった。やっぱり、椅子は椅子だね。

―わたしもすわったわ。たしかにそんな感じね。

 新しい美術館に来る前の、たのしい期待だった。

 風がときどき強くなる。

―目録は買った?

―どうしようかなとおもったけど、そのまま出てきた。

 モディリアニは生きる勇気を与えてくれる。おまえはそのままそこにいればいい。おまえが見たいものを見ていればいい。

―買ってくる?わたしもすこし見たい気がするし。

―それはうれしいけど。

 Iはもう一度、ガラス張りの入口の方へ戻っていった。

向こうに見える庭園風の植栽も風に揺れている。恋人同士がそこを歩いている。

 しばらくすると、Iが白い袋を手にして、ふたたび前庭に、風の中に返ってきた。

―絵はがきも一枚買ってきた。

―どんな絵?

―どんな絵だとおもう?

―わかんないな。

―ジャンヌ・エピュテルヌのデッサン、あごに手をあてているの。

―油絵よりもすごいくらいだね。

 モディリアニのデッサンはすばらしい。世界がそれで切り取られるかのようだ。

―前に見たモネとどっちがよかった?

―モネもよかったけど、ぼくはモディリアニかな。

―ふーん、どうして?

―何を見たんだろうね、何かを見てしまったから、どこまでも肖像を描いた。

―何を見たの?

―わかんない。たぶん本人にしかわからないんじゃないかな。

―わたしは両方ともよかったわ。モネはモネで。

―晩年の庭がよかった。あの花々のアーチをくぐり抜けていく道。

―みどり濃い中にいろんな花があったわね。すこし歩いてみない?風が気持ちいいから。

 Iの春らしい服が風を受けている。

まるで恋人みたいだ。

 

15

 モズはすさまじく元気になった。しかし野性はまったく変わらない。むしろ元気になった分よけいけたたましくなった。結局みかんしか食べなかった。柿もりんごもせっかく見つけてきた搔き餌も食べないで、みかんだけで元気になった。若いだけに回復しだすと早い。鳥かごに飛びつき、ぴょんぴょん、ぴょんぴょん動き回る。

 今日はもうどうしても放しにいかないといけない。郊外線に乗ってO駅の向こうで放そう。あの辺の林なら、万一また弱っても、なんとか生き延びられるだろう。こうしてみると都市にはまったく自然がない。当然といえば当然だが、あらためて自分が人工の中だけで生きているのを感じる。ここで弱った鳥は生きていけない。たぶん人間もそうなのかもしれない。鳥を林に放そう。

 郊外線のアルミの銀白色と青緑のラインが真新しい車両に乗ると、ひさしぶりだなとなつかしくなる。Kと一緒に勤めていたころは、しばしば乗った。そのころは鈍い色の緑の車両ばかりだった。

 O駅を過ぎるころ、窓外に注意していた。R荘は以前のままだった。さらに古びて、すこしかたむくようにして、さわやかな秋空に暗いモルタルと排気煙突がすべるようにながれていった。Kはどうしているだろう。版画のことがあってから一度、最後にもらったはがきの住所宛に手紙を書いてみた。もしかして届けばとおもったが、しばらくすると宛先不明で返送されてきた。

 Kのところでは、食事とかではなく、なんとなくそこにあったボールを使って、インスタントラーメンを作って食べたことがあった。それがたのしかったからだろうか。いまではもうわからない。そんなとき、テーブルをはさんで、彼がマジックをしてくれたことがあった。Aが心に刻んだカードを元に戻したあと、彼は細い指のきれいな手さばきでカードを繰って、みごとにAの前にそのカードを置くのだった。そうしたマジックを、彼は幾通りも見せてくれた。

或るとき、どういうわけか、置いてあった美術の油かなにかを溶くアルコールランプを使ってラーメンを作ったことがあった。

丸い木のテーブルの上に小さなガラスのランプがひとつ、その上に黄色っぽいボールが載っている。記憶ではKはその横で本を手にしている。彼も本が好きだった。彼が教えてくれた一冊の画集は忘れない。グリューネバルトの「イーゼンハイム祭壇画、磔刑」。

沈み行く夕日のうす暗い部屋の中に、かすかに青い炎が揺れていた。

 郊外線の車窓に遠く丘陵が見える。Aのふるさとの丘陵とは違う。しかし共通しているなにか。そこに来れば安心できるなにかがある。人は本来そうした景色に守られて生きるのだ。都会の中ではあまりにも裸のままだ。疲れたら木々の中で休めばいい。冬の風は高く木立の上を行くだけだ。林の中は静かで暖かい。モズよ、おまえもそこで生きるがいい。そこがおまえのふるさとになる。

 ああ、なぜ気づかなかったのだろう。Kのふるさとは川のあるU市だった。そこで旧盆のころに大きな花火が上がる。精霊を送り、生者の安穏を祈る。一度そのことを話してくれた。Kはそれを描いたのだろうか。

 馬致遠は杭州で遠くにぎわう大都をおもう。。元曲「秋思」にうたう。

 枯藤の老樹、鴉を昏くし

 小橋に水流る、人家のほとり

 古道の西風、痩馬ありて

 夕べの陽は西に下ちる

断腸す、人の天涯に在ることを

窓辺にひくくなだらかな丘陵が見えてきた。

ホームに人はいなかった。モズと一緒に改札口を出ると、霜枯れた畑がひろがり、一本の道が彼方の丘陵へと続いていた。秋の早い残光の中に綿虫が白く舞っていた。

 

16

 丘の上の図書館からは町が一望できる。三階の東側のフロアがコンピュータ室になっている。そこではインターネットが常時つながっていて、どのテーブルでも自由に使えた。休日はその窓寄りの場所で過ごすことが多くなった。窓の左側、北東に、高い青緑の建物群がそびえている。高台のここから見ると一段と高い。そこだけが空を突き上げるようにそびえている。そのすぐ南に、Aの住まいもあるはずだ。モズはあの高い建物にぶつかったのか。ふとそうおもった。ガラスの壁が遠く鈍く秋の午後の光を反射していた。

鳥のいなくなった部屋を久しぶりに掃除していたら、隅に幾枚か、モズの産毛が落ちていた。やわらかい羽は、放せばしばらくは中空に漂った。そんな幼さでもう都市の中で生きていたのか。丘陵の木立の中でゆっくりと休んでいることを願った。都市に出るのはそれからでいい。

 AはwebページをはじめDreamweaverで作り、途中からExpression Webに変えた。文書もはじめOfficeを使ったがまもなくzohoに変えた。そのほうがこまかな数式を表記しやすかった。backupSugarSyncを使って自動的に行なった。これで彼のすべての痕跡はcloud上にあることになった。Aのコンピュータにデータの根幹は残らない。もしcloudが消えれば主要なものは消える。それはそれでいい。このシステムではtotalbackupはむずかしい。

今回は自分の痕跡を残したいという強い希望があった。しかしそれも絶対にというほどのものではない。それはいずれにしても不可能なことだ。消えるものは消えて、残るものは残るだろう。世界には無数にアーカイブが存在する。

多いときは一週間に二編くらい書くこともあったので、ページはしだいに大きくなった。特殊なものなので、どこかに奇特な人はいないかとおもい、文書は英語で書いた。どこかでだれかが見てくれるかもしれないという、淡い期待をいだいてみた。しかし反響はまったくなかった。Googleでわかる。当然といえば当然だが、この広い世界で一人や二人、自分に共感してくれるものがいてもいいのにとおもってはみたが、それも途中からほとんど気にならなくなった。ただ書き続ければいい。それはいつか、記述されるべき微小な言語のひとつになるだろう。アメリカン・インディアンの諸語を採録し続けたジョン・ピーポディ・ハリントンのような人がどこかにいないとは限らない。1920年ごろのフィールド調査をしているスミソニアン協会所蔵の写真は、どこか西部の開拓者に似ている。この大都会の片すみで、ひっそりと未来のハリントンを待つのも悪くはない。

 時間や言語をモデルを使って考えるのは、たのしい作業だった。どんなふうに考えてもいい。しかし実際には、なかなか実行できるものではない。ありきたりの発想しかできないのだ。

彼は作業の方向を考えた。簡潔なモデルをつくる。そのモデルは図形で表わす。図形は幾何で表記する。幾何は深谷賢治に従って、「群とそれが作用する空間の組」とした。そういう根本的なことを常に確認し展望することができるのが深谷の本の魅力だった。

ヤーコブソンの「意味最小体」semantic minimumを参考にして、幾何的な「意味の最小単位」meaning minimumを設定し、閉区間closed intervalで時間tを動かすことによって、時間を意味として包括する幾何的な語wordを定義した。この方向を異なる幾何のレベルで、幾度も繰り返した。

言語の普遍性は数学の不変量invariantに接近した。深谷の本で、グロモフ‐ウィッテン不変量Gromov-Witten invariantから量子コホモロジー環quantum cohomology ringが得られ、さらにグロモフ‐ウィッテンポテンシャルGromov-Witten potentialが得られることを知った。言語は数学と物理に接近した。むかしから気になっていた対称性も精密に点検できるようになった。その中心にコンツェヴィッチによるホモロジー的ミラー対称性homological mirror symmetryがあった。

 図書館での作業に疲れると、屋上に出た。暗いにび色の秋空の下に広がる都市は人間の営みの壮大さを伝える。遠い都市の音がこだまのように響いてくる。鳥が空を翔けるように、人はこの都市を翔けているのだろうか。ときおり鳥が高い建物群の青緑色のガラスに衝突して地上に墜落するように、人も地上で衝突してどこかに墜落するのだろうか。

 かつて章炳麟の文始という本で、鳥に関する記載を読んだことがあった。漢書宣帝紀、元康三年の詔に曰く、五色の鳥、万数を以て属県を飛過す。
 五色の鳥が一万羽も空を飛んでいったことがあったらしい。
 文始はさらに漢書の引用を続ける。神爵三年の詔に曰く、正月乙丑、鳳皇、甘露を京師に降集し、群鳥従うに万数を以てす、是の漢書の所見は実然たり。

鳳凰が都に甘露を降り注ぎ、それを求めて一万の鳥が集まった、この漢書の記事は事実である、という内容だ。

章炳麟がこれらの記載を信じたかどうか、それはわからない。しかし章炳麟の癖からすれば、自然なこととして信じていたかもしれない。 

 図書館の屋上の回遊式の庭園に、秋の花々が乱舞していた。白い秋明菊、黄色い丸菊、野紺菊。地味なホトトギスと地に這う白くこまかいアリッサムの花。空色のサルビア、赤いチェリーセージ、紫のローズマリーと淡青のバヂル。濃い青のセントポーリア、白いサフィニア、深紅のゼラニウムの鉢とハンギング。ヒューケラ、ドラシナコンセンナ、サンセベリアの観葉植物。スパッティも緑が濃く、ウメモドキがもう赤く実を色づかせている。つぼみをふっくらと膨らませ始めたさまざまなサザンカ、風にそよぐ最後のコスモスの花。かなり背を高くしてきたウインタークレマチス、残り少ない葡萄棚の大きな葉、そしてときおり吹く強い風に揺れる赤や白の大輪のバラ。よく見ると季節をたがえた淡紅のボケの花も見える。シャラが美しく紅葉し、ハナミズキはその葉を褐色に変えている。そのかたわらではシャクナゲが、つぼみをすでにかなり膨らませていた。

秋がしだいに深まっていた。

 風に乗って都市線の音が聞こえてくる。Kはどうしているか。そうだ、文書に献辞をつけよう。For familiar days with K

 家に戻っても文書を書き続けた。時間と言語の空間は、直線から平面へ、そこから球面へとすこしずつ拡張していった。ロジャー・ペンローズの仕事に惹かれて、射影的なモデルを作ってみた。深夜そのことを考えていたとき、言語がオーロラのように天空を舞ったら美しいだろうなとおもった。

実数全体を直線に対応させたように、複素数全体を平面に対応させると、複素平面ができる。二つの実数で確定する複素数を言語単位としてその平面上に置き、それを言語点と呼ぶ。その平面の原点から垂直な第三の座標軸を立て、原点を中心とした単位半径をもつ球面を作る。球面は新しい座標軸の半径1の点で交わる。その点と複素平面上の言語点とを直線で結ぶと、言語点が1以上の距離を持つとき、球面と一点で交わる。距離が1以下のときは言語点は球の内部に入り、球面と交わらない。言語の限界をこれで示す。通常の言語点は距離が1を超えると球面の天空に射影される。その射影をオーロラと呼ぶ。無限遠の言語点はZ軸上の球面に収束する。無限の言語を有限上に取り込める。複素平面上の二点を結んだ直線は球面天空に弧を描く。平面状の二直線は天空で二つの弧となり、四点を結べば、いびつな四辺形が天空に浮かぶ。ここで天空の点を語、弧を文、四辺形を文章とモデル化すれば、そこに言語が浮かび上がる。言語はオーロラとなって天空に舞う。Language is aurora dancing above us. そう記してKにささげた。

 

17

 久しぶりの日だまりの昼休みに、壁にもたれるSの横にすわった。

―モズを丘陵に放してきました。

 モズのことはしばらく前に伝えてある。

―それはよかった。感謝されるよ。

―そんなこともないでしょうが、とにかくほっとしました。

―おれは鳥は飼ったことはないけど、鳥は頭がいいからな。

―そうですか。

―そうさ。おれのふるさとじゃ、鳥は忘れないと言っていた。そうして恩返しをしてくれる。

―鶴の恩返しですか。

―それと同じかどうか、とにかく林の奥には鳥の王国があるらしい。見たことはないけど、見えないだろうな人間には、とにかくあるらしいよ。

―ほんとですか、それ。

―ほんとうだ、それでそこに行き着くと、人は幸せになる。そういうことわざがあるんだ。

 Aは話を聞いているうちに、Sはそこに行き着いたのではないかとおもった。もしそうならば、Sと話しているといつもやすらかなおもいになることもわかる。

―話はかわるけど、オーロラ理論はたのしいね。

―えっ?見てくれたんですか。

 休みのときの話が出たとき、最近はwebページで文書を書いていますと言ったことがあった。Kに贈ったAurora Theory

―なぜ時間は早く感じたり、おそく感じたりするのかっていう文があったろ?

Why Human Time Flows Fast and Slow on Occasion.

―そう、それだ。あれがいちばんおもしろかった。

―ありがとうございます。まさか読んでくださってるとはおもいませんでした。

―ガウス平面からリーマン球面に射影するだろう、そこにオーロラのように言語が生まれる。球の中心すなわち座標の原点から光のような素子が飛び立つ。なんて言ったっけ?

dictoron

―あれはなに?

―かってに名まえをつけて、定義がすこし甘いんですが、言語認識素子。

―そう、それがリーマン球面まで到達する。速度は一応光のフォトンと同じだったね、すべての認識素子は同一時間で球面に達する。そして球面を人間の認識領域だとすると、その領域上の言語をすべて同一の時間で言語認識素子は認識する。物理的な時間は同じだ。ところが球面上の言語間の距離をその弧として捉えると、そこには当然さまざまな距離が生じている。その距離を言語認識素子の速度で割ると、弧の長さに応じて、時間に長短が生じる。物理的な認識時間は同一でも言語領域上の弧の認識時間に長短が生じるというわけだったね。

―そのとおりです。

―表題のところにあの文書だけInterludeってついてたけど、あれはなに?

―間奏曲という意味で、すこし遊んでもいいかなっておもって。モデルだから、作ろうとおもえばどんなふうにも作れるんです。

―でも多少はヒントがあったんだろ?

―認識素子の想定は物理のダヴィッド・フィンケルシュタインを真似てみました。フォトンと同一速度なんていうのもそのためです。リーマン球面を人間の認識領域に設定して、そこに距離の概念を介在させると、時間の絶対認識と相対認識がきれいに相違するということは自分で思いつきました。そのころ意味における距離の関与について考えていましたから。

―簡潔でいいモデルだけど、しかしあの射影をそのままでさらに発展させることはむずかしいんじゃない?

―そうなんです、今は関数全体の集合から空間を定義するという最近の考え方が自然におもわれます。中島啓が提出した、母関数の類似を幾何学的に考える母空間なんてなんとも魅力的です。それをフォローした牛腸徹が、非線形偏微分方程式の解全体として理解されるモジュライ空間の解の個数で作られる母関数が密接に関係し合っている状態は、限りなく量子論的だと言っています。またその前提として牛腸は、母空間上の関数空間を考えてそこからベクトル空間上の対称テンソル空間を定義し、元のベクトル空間をその双対空間上の対称テンソル空間と同一視すると、母空間上の関数空間がその対称テンソル空間とまた同一視でき、結局、場の空間における粒子の生成と消滅が記述できるというのです。

―つまり粒子の生成と消滅が数学的な根拠を持つというのだね。

―そうです。

 Sから数学のことを聴くのはこれが初めてだった。

―図書館に行くとだいたい本があって、そこで読んだ雑誌に書いてありました。歩いても二十分くらいで行けるので助かります。丘の上で展望もいいんです。屋上には花も咲いていますし。

―数学と花と鳥か。いい話だなあ、ありがとう。

 

18

 日曜日の朝、電話で眼を覚ました。Iからだった。

―どうしたの、昨日来なかった?

―悪い、ずっと眠ってた。熱があって薬屋で熱さましを買ってきて飲んだら、そのまま今朝まで眠ってしまった。

―何回か電話したけど、出なかったからどうしたのかとおもって。今はどうなの?

―体がすこしだるい。こういうことはいままであまりなかったんだけど。

―大丈夫?

―今日は一日ゆっくりする。すこし根をつめすぎた。

―あまり無理はしないで、もう徹夜とかは無理よ。

―そんなことはしないけど、弱くなったな。また連絡する。

まだ話したそうなIに対して、電話を切った。体がだるい。

窓の外に眼をやると、寒そうな電車通りを霧がうすくながれている。こんな日は休みでよかった。

昨日の午後からものを食べていないが、動かないせいか、それほどの空腹は感じない。のどが渇いたので、起きて牛乳を飲んだ。すこし体がふらふらするが、もう眠る気はしないので、ソファに横になって、休むことにした。明日はどうするか、たいして休暇も取ってないので、休むかどうか。夕方までの体調を見て考えようとおもった。

文書にKへの献辞をつけて載せたが、webページのabout usに自分の連絡先は載せていないから、もしKが見ても直接に連絡が来ることはない。ただ、むかしの友情をそこで確認するだけだ。さらにKの名まえで検索をかければ、Aの文書がヒットする。だからKよりその周囲のものが、もしかしたらKを検索することでAの文書を発見するかもしれない。そんなふうにもおもった。第一、まさかとおもったSが文書を読んでいてくれた。

体がだるいので、ソファのふちに頭を乗せて、することもないまま、懸案の祈りの続きを考えていた。

Aは祈りのモデルとして鏡の世界を想定していた。実際の手が鏡に映る。奥行きもある。動かせば一緒に動く。しかし実態はない。そして左右が反対になる。というより右手は右手なのだが、鏡の中では左手側として構造化される。上下関係はそのままだ。朝永振一郎が描いた鏡の中の世界だ。それはよく言われることだが、これだけではそれ以上には進まない。

鏡の手前に実在の幸福がある。鏡の中にその幸福が映る。それは実在しない。手前の実在の幸福を取り外せば、鏡の中の幸福も消える。今鏡の中に幸福があって、手前に実在の幸福がない状態を想定する。そういう状態をモデル化できないか。そんなことを彼はしばらく前から考えていた。

虚数を使えばどうだろう。リーマン球面の座標に時間座標を加えて、それに負の記号をつければ、ミンコフスキー空間になる。時間座標を空間座標と同じ正にとれば、次元に関してシンメトリカルな四次元球面ができる。これはホーキングが宇宙の生成に関して虚時間を導入した発想だ。ホーキングの宇宙の始まりは、だからその底面が球になっている。

 言語に対称性は入れられないのか。そうすれば面対称で鏡の世界ができる。そして鏡の中だけに言語があるようにすれば、それを祈りのモデルとすることができる。そんな道筋を考えた。

 実数に対して虚数があるように、実言語に対して虚言語がある。祈りは虚言語で書かれているとする。実言語の中に内在する時間を想定したように、虚言語にも内在する時間を想定する。天国に行くことは、虚言語の中で内在する時間を移動することになる。その言語をミラー言語mirror languageと呼ぶことにする。それならば、そのmirror はどこに置かれるのだろうか。

図書館でもっともよく読んだのは、深谷賢治だった。円はやはりx2 + y2 = 1で認識するより、丸い図形のイメージで認識するのが自然におもわれると書いてあった。幾何学の直感性はたしかにすばらしく普遍的だ。

深谷の本を読んでいくと、ミラー対称性mirror symmetryが出てくる。ホッジ・ダイアモンドと呼ぶものを或る値のところに設定し、そこで折り返すときれいなミラー対称性を得ると記されていた。Aが考えるmirror languageもそこで可能かもしれない。

対称性。それはかつてCと繰り返し話した内容だ。1920年代のプラハ。雑誌TCLPに載ったカルツェフスキイの論文、「言語記号の非対称的二重性」。言語が保持し続けるところの、それによって言語が言語であり続けるところの、絶対的に矛盾する柔構造と硬構造の共存。言語において二重に内在し続けるだろう永遠の矛盾。言語がかくも柔軟でかくも堅固でいられるのはなぜか、そのほとんど絶対的に矛盾するかともおもわれる二重性をカルツェフスキイは提示した。Cがその最後の本の中でただ一人天才と称した言語学者、セルゲイ・カルツェフスキイが残した白眉の論考。

なぜこの共存が可能なのか、この二重性に対する整合的な理解は今もなお、たぶん提出されていない。これに比して世界の量子化quantizationについては着実な進展があった。

深谷によれば、コンツェヴィッチは1997年の論文で形式性予想を提示し、2003年の論文に至って、みずからその予想を証明した。「ポアッソン多様体の変形量子化」。深谷は彼の本の中でその証明の概略をRの場合に限って述べている。証明の全容は計り知れない。量子による空間、それももう夢ではないかもしれない。

その果てにある、有限と無限。

ヤーノシュ・コラールと森重文が書いた本は伝える。三次元標準フロップの任意の列は有限である、と。今フロップを一種の写像と考え、意味を有限の列と仮定し、立体と時間で作られたこの四次元世界を平面と時間で作られた三次元世界に射影すれば、無限に生起するとおもわれた四次元世界の出来事のすべてが、三次元の有限の世界に閉じこめられることになる。時間を含む意味を体現した文字は、まさしくこの私たちの現実の世界を射影し閉じ込めたものとなる。幾何で表記された図形が言語のモデルとなることが可能になるかもしれない。

さらに、コラールと森は伝える、四次元以上におけるフリップの存在はまだ知られていない、と。まったくの未知の世界が、広がっている。

―それで私はどうするのか。

バックハウスのオシアッハにおける最後の演奏会をおもう。

演奏を中断して、バックハウスは聴衆に語りかける。どうか少し休ませてください。そう言って、ふたたび現われたとき、彼は曲目を変更してシューマンの短い二曲とシューベルトの即興曲を弾いた。

「ゆうべに」、そして「なぜ」。

バックハウスはこの一週間後に亡くなる。

―ひとはなぜ問い続けるのだろう。

 立って東の窓を見ると、外はこごえるような空の下に、行く人もまばらだ。さっきより一段と濃くなった厚い霧の中を、ライトを点けた路面電車が音もなく過ぎて行く。街灯が一斉にあかりを灯している。

遠く忘れられていた祝祭がはじまる。

 台所にかけられた版画から、冷えきった暗い室内に向かって、光の帯が音もなくのぼり、大輪の花火がゆらめきを残してつぎつぎに開花してゆく。花火はガラスに映り、やがてガラスを超えて霧がながれる街路の上へとひろがってゆく。

 暗く霧におおわれた空一杯に、今、花火が大きく開き、その下方を乗客も絶えた路面電車が音もなく過ぎて行く。

―Kよ、どうか元気で。私のように元気でいて。

それは切なるねがいだ。よき人はあまりにはやく逝ってしまうから。

―だからこんなにさびしいのか。

 私を救うのはガルシン。帝政末期を光芒のように生きて逝った魂。「赤い花」で主人公は必死に赤い花をもとめ、ついにそれを得る。だから私もそのように生きよう。

もしなにも得られなくても、ガルシンが「信号」で書いたように、一度は離れたヴァシーリイがついにセミョーンに応える純粋さを、失うことなく生きていこう。フセヴォロド・ミハイロヴィッチ・ガルシン、ああ、あなたの名まえの中にもミハイルがいる。

天使ミカエルが起ちあがる、ダニエル書終章のことば。

汝終りに進み行け、汝は安息に入り、日の終りに至り、起て汝の分を享ん。

暗い室内にあかりを灯す。モズが私に与えてくれた生きるというあかり。

どうしようか。すこしものを食べないといけない。ありあわせでごはんを食べようか。パンはたしかきのうの朝、みんな食べてしまった。あとなにが残っていただろう。

染み入ってくるような寒さの中で、ソファの脇のカーディガンに手を通す。モズよ、おまえも暖かにしているか。

ふりかえると版画は、すべての流動を終えて、もとのしずけさに返っていた。

窓の外はいつか霙になった。

ドアが小さくノックされる。

立て付けのわるいドアを開くと、白いビニールバッグを重そうに持って、片手にはながいフランスパンを抱えて、Iが不安そうに立っていた。

その短い髪に、霙が淡く光っていた。

 

19

―この間はありがとう。ほんとうに助かった。

 S駅の地下道から地上に出ると日ざしがまぶしい。待っていたIにお礼を言った。

―どうしようと思ったんだけど、思いきって、行ってよかった。もしかして迷惑だった?

 Iが、きらめく光を通す木立を背にしてたずねる。

―そんなことない。言い方がいつもたりなくて。ほんとうに感謝している。

 広場の向こうを、車が重なるようにゆっくりと過ぎて行く。

―もう大丈夫なの?

―すっかりよくなった。きみのおかげだ。

―そんなことないわ。

 Iがうれしそうに言う。広場のふたりに木漏れ日が揺れている。

たえまなく行き交う広場の無数の人々の中で、Iはたったひとりの人に伝える。

―もし元気だったら、新しくできたJ書店に行ってみない?

 信号が変わって、人波がいっせいに動きだす。

―今日はほんとうはきみにお礼をするんだった。べつになにもできないけれど。

―それはいいの、わたしが自分でしたかっただけ。

 Iがほほえみながら応える。

―じゃ、先に本屋に行って、それからでもいい?

―ええ、私も新しいところを見てみたいわ。

 歩き出すと、歩道は、肩が触れ合うくらいに人出が多い。

―すごいね。ますます多くなる。

 押されるようにして、Iは彼の腕を抱く。

―だれかが言ってたわ、この町には過去も未来もなんでもあるって。

―ほんとにそういう感じだ。

 信号を待ちながら、Aは彼女に伝える。

―ここのところでね、むかしカフスボタンを買った。たぶんこの位置のはずだ。小さいお店でね、今みたいに信号を待っていたら眼にとまったんだ。

 雑踏で声がかき消されるくらいだ。

―緑のヒスイのいちばん安いやつ。今でも持ってるよ、それひとつしかないから。ヒスイは魔よけになるの、知ってる?

―知らなかった。

―だからいままでよかったのかもしれない。

 Iに話していると、ほんとうにそういう気がした。

―あなたはいつもそう。

 それがIの告白だった。

 愛する人。

―ほんとうなんだよ、これは。

 そういう彼自身のたわいないことを、今はIに伝えたかった。

 信号が変わる。

―むかしね。谷山豊って人がいたんだ。

 Aは声をすこし大きくして言った。

―若くして亡くなった。婚約者もたしかまもなく亡くなった。彼とその友人が作った予想が、フェルマー予想を解くかぎになった。ワイルズという人が解いてもう十年以上になる。それで谷山の特集が雑誌に載ったことがあった。

 Iはただ彼を見ている。

―そのときね、本屋で読みながら、すごくうらやましいとおもった。雑誌は買わなかったけど、買ってもしかたがないような気がしたから。自分にはそのときなにもなかったから。ただ、そんなふうに生きてみたい、死ぬことじゃないよ、一度生きるならそんなふうに生きたいとほんとうにおもった。それがたぶん自分には生涯できないとわかっていたから、よけいうらやましかったんだ。それがね、いまは谷山のように生きている。彼のようにすごくもなんともないけど。おもいはまったく同じなんだ。

―すごいわね、ほんとうに。そんなにおもえるなんて。

 書店が見えてきた。

ふたりに今、恩寵のように冬が来る。

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