私を求めて
里行
大学に入った1967年の秋の学期の初めに、中国語作文を教えてくださった輿水優先生が夏休みに中国を訪れ、ホテルの窓からひそかに撮影した、街路全体に人々が充満し、大きな赤旗が翩翻とひるがえる文化大革命の行進が延々と続くスライドを見せてくださったとき、同時代で発生している歴史的事実に対して、言い表しにくいしかし深い不安の混じった衝撃を受けたことを、今まざまざと思い出します。「私は今ここで何を学んでいるのか、どのように学べばよいのか」と。
思想のためにではなく、中国語作文のために、先生は毎週毛沢東語録の数頁を暗記する課題を課し、毎週その一部を先生が読み、私たちが聞き取って筆記するという時間が一年間続きました。原文は先生が二度読むだけで、そのままを筆記し、ピンインではなく、このときだけはわざわざ注音符号でふりがなをふって提出すると、その時間内に先生が確認し採点して返してくださいました。注音符号の細かな書き間違いまで点検されたきわめて密度の高い授業でした。そのおかげで、私たちはいやおうもなく毛沢東語録の主要部分を暗記してしまい、現在でもその一部はそのまま記憶されています。また、注音符号の書き方にも習熟し、その後、中華人民共和国の書籍入荷が限られる中で、中華民国系の書籍の読解や検索に大変役立ちました。
岩波中国語辞典の大きな協力者であった陳東海先生が毎週土曜日の一限の時間に会話を教えて下さいました。私たちがいつも耳をそばだてて拝聴したのは、先生が過ごされた古き良き時代の北京の風物のことでした。「みなさん、京劇はどのようにして聴いたとおもいますか」。この問いに先生は実に楽しそうに、「舞台に対して横を向いて椅子に腰かけて聴いたのです。京劇は見るのではなく、聴くのです」。
大学紛争の中で私たちが敬意を込めて、伝えあった出来事がありました。中国語作文をこよなく愛された長谷川寛先生のことでした。先生は、学生の毎日の作文小テストの評価を野球の打率に換算して、何々君の打率は最近下がった来たとかという風に話すのでした。長谷川先生のこの作文への至上の愛着が、大学紛争でも遺憾なく示され、このことに学生たちは各人の思想の違いを越えて先生への敬意をもって伝えあったのです。「長谷川先生は、学生との集会のときに、壇上で学生の言葉を中国語に翻訳していたんだって。あのことばづかいを即座に翻訳するのはかなりむずかしいと言ってたって」。
長谷川先生は、私が新しく大学へ編入学するときに、先生ご自身の名刺に、中国文学の小野忍先生への紹介のことばを書いてくださいました。先生はお名前の下に認め印を押される時、席を立たれて後ろの机から小さな印鑑を出され、「この印は毛沢東の印を彫った人が彫ったものなんだよ」とおっしゃりながら押してくださいました。
大学の専攻科修了のための論文を、私は川崎庸之先生に提出いたしましたが、その論文において私は空海の「三教指帰」の成立についての考察を試みました。本文に出現する全ての漢字の索引を作り、そこから主要な助辞の出現度数分布を計量し、「三教指帰」上中下三巻の内、中巻の老荘思想の巻の助辞の出現率が、上巻下巻と著しく異なることに着目し、中巻の成立が上巻下巻の成立と異なった状況でなされたのではないかと推論しました。
論文提出後、小野先生が研究室に私を呼んでくださり、そこで「君の方法は、カールグレンの方法に似ているね。しかしあくまで確率的推論方法であることを忘れてはいけないよ」と懇切に教えてくださり、さらに「カールグレンの『左伝真偽考』を私がかつて訳したものがあるから、読んでごらん」とおっしゃって、先生の御本を貸してくださいました。私は、自分の採用した方法が、欧州における中国学の泰斗であったカールグレンの分析方法に一部でも近似していたことに驚くと同時に、小野先生の学の広さと深さを改めて身にしみて感じたひとときでした。その後先生が訳されたこの御本を、私は神田の山本書店で購入しています。昭和57年(1982年)になっていました。『左傳真僞考 附支那古典籍の真僞について』カールグレン著、支那學飜譯叢書Ⅵ、昭和七月十五日発行、東京文求堂印行。先生の学恩とその優しさがしのばれます。
東洋学の普遍性を実感したのは、川崎庸之先生の研究室で、先生が平安時代の円仁が著わした「入唐求法巡礼行記」のお話をしてくださったときでした。ライシャワー教授が同書の翻訳をおこなう契機は、教授がフランス留学において、恩師ポール・ドゥミエヴィル先生より「行記」の比類ない価値を教えられたことに基づくこと、またその漢文原本の解読とその研究においては、在京のおり史料編纂所の勝野隆信先生等が親しく援助したことなどを教えていただいた時でした。学問に国境はなかったのです。
また奈良国立博物館で小野勝年先生からその大書『入唐求法巡礼行記の研究』のお話を直接伺う機会に接し、さらに、小野勝年先生のこの研究の成果が『入唐求法巡礼行記校註』として1992年に中華人民共和国の花山文藝出版社より白化文の責任編集によって刊行されたことを知り、東洋学の普遍性とその世界的広がりをはっきりと感じとることができました。
私たちが神田で中国書籍を求めていた時代は、文化大革命のただなかのときでした。中国書籍は専門書店でも寥々としており、わずかに中華民国の復刻版のみが私たちの渇をいやしてくれました。内山書店がまだガラスの引き戸で、中に入ると、ひっそりとした店内で内山夫妻が学問の何も知らない私にまで、手ずからお茶を出してくださいました。そのご好意は今も決して消えるものではありませんが、それはあまりにも限られた世界においてであり、享受できる人も限られたものでした。
私は、言語と歴史を中心とした東洋学の伝統に深い愛着を抱いています。東洋学こそ、現代において、日本が世界に発信できるもっとも優れた貢献の一つであると思います。これからのWeb上での展開は、ひとつの大きな可能態として確固として存在し続けることとおもわれます。
Tokyo March 10, 2007
Sekinan Research Field of Language
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