ことばとことばを超えるもの
里行
ことばは、決して世界そのものにも、私たちの生そのものにもなれないのだから、それらをうっすらとなぞっているだけだと言えないこともない。
ことばは決して音楽でもないし、絵画でもない。ことばはことばでしかない。音楽について語り、絵画について語る。それらの輪郭をなぞりはするが、それらそのものではない。
要するにことばは物質ではない。それでは精神かというと、それも少しためらわれる。ことばは、その内に音を持ち、文字を持つ。鉛筆で書けば、はっきりと残る。しかしそれらはどうもことばの付属という感じがする。
ことばはどうもそうした物質にやや近いものを持ちながらも、その最も奥深い処で、物質を超えた何かを持っている。遠い記憶がことばによってか、ことばを介してか、はっきりとよみがえってくる。ことばがなければ、或いは一篇の詩を読まなければ、自分の幼い日の夏まつりも、他者の夏まつりらしい風景も、今この瞬間に自らのうちによみがえることはなかったであろう。
宮柊二が晩年に書いた、追憶の故郷の鳩まつりのにぎわいが、私の心のなかに入ってくる。過去と現在は交錯し、微かには未来も見えている。
ことばを通して、私は人の生涯について考える。というよりも生涯が仄かにうかんでくる。そういう仕事をすることばとは、物質や精神とふれあいながら、それらにそまりきれない途中にか彼方にかに、たゆたっている。
ことばがなぞっているものが私たちの内にあって、ことばはたましいの軌跡を追っているのかもしれないと思ったりする。
そもそもことばのことを考えるのにことば自身を使っているのだから、鏡が自分を見るのに鏡を使っているようなもので、そこまで来るともう私の手には負えない。
ことばはことばを超えるものを内に持っているのかもしれない。そういう不可知の近くに私たちはいるのかもしれない。
Sekinan Research Field of Language
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