叡智と木立
里行
今からはもう遠い青春の日々に、フランスの詩を原文とひき比べながら読んでいたことがありました。その中で最も心に響いて来ましたのは、ヴェルレーヌの叡智ということばでした。
彼は静かに、木立について歌い、自らの悔いの多い人生について歌いました。
私はその世界に心ひかれながらも、近代という、稀有な時代の重さの中から、どのようにして、ヴェルレーヌが歌う希望というものを見い出せばよいのか全くわかりませんでした。
それから三十余年が立ち、或る講演会でヨーロッパ近代の話が出ましたときに、私はランボーについて質問しました。その説明を受けたときに、私は自己の難問が氷解して行くことを感じました。
簡略に述べれば、近代は近代自らの中では、問うことはできても、答えることは、多分何人たりともできなかったのではなかったか、ヴェルレーヌの希望は確かに存在はしたが、それはヨーロッパ近代の外においてではなかったか、ということです。あたかもランボーが、ヨーロッパに詩を残して砂漠へと一人で出ていったように。
ですからヴェルレーヌが歌った木立の世界も、今はこうして私の中で、ただ静かに揺れているだけでよくなりました。
アメリカのカーソン・マッカラーズは、“A Tree a Rock a Cloud” という作品の中で、私はまだこの作品をよんでおりませんが、人が人を愛することの難しさを述べているそうです。
その中で、人はまず、ひとつの木、ひとつの岩、ひとつの雲を愛することを覚えなさいといっているというのです。
なんという深い叡智であったかと、今の私は思います。
五日市青年の家は、マッカラーズのことばを思うのにふさわしい処です。
この木立が、いつかみなさんの心の中で、叡智へと変わることを希っています。
Itsukaichi March 8, 1997
Sekinan Research Field of Language
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