From Print 2012, Chapter 10
一枚の版画の中には、それがたとえ錯視であれ、つぎつぎと花火を開かせる、流動する時間が存在した。それは漢字の意味の生成において想定される構造的な時間とつながる。それとは別に、中央アジアの壁画の中で菩薩や衆生が祈るとき、画面の中に祈りの時間が感じられる。それは漢字の内部に構造的に存在する時間とは異なるものだ。画面全体が或る事象の最終場面を示している。祈りは過去から始まりその時刻に至った。言い換えれば閉ざされた時間の最後を画面は提示していた。
林巳奈夫は、殷周時代の青銅祭器に年代的秩序を設定する半世紀におよぶ作業の中で、角の有る神を龍以前の最高神と仮定した。ひとつの最高神の図像が悠久な時間の或る時期の最後の形態として登場する。合掌と有角神には共通して時間の堆積がある。
それらの果てで、すべての形において、時間もそのひとつの要素であるところの意味を有する言語の存在が問われる。それは困難だが明確な思惟の対象だ。
老子注で王弼は言う、万物万形その帰は一なり、何に由りて一を致すか、無に由りて一なり、すなわち一つ一つは無と謂う可し、すでにこれを一と謂う、豈に言無きを得んや、言有りて一有り二に非ず、一有り二有りて遂に三を生むをいかんせん、無に従うの有、その数は尽きるか、と。無からひとたび有が生ずれば、すべてはそこから言語として派生する、と記す。無と言語の問題。
王弼はさらに言う、周とは窮まらざる所無く、極とは一に偏よらずして逝くなり、ゆえに遠なり、と。めぐるものはきわまることがなく、ひとつにかたよらないものは遠くに行く、と記す。巡回と無限の問題。
王弼の注はふたつとも、言語の本質に係わり、Aの中では大鹿健一の仕事と重なった。
大鹿によれば、位相空間としてのタイヒミュラー空間の定義に始まり、サリヴァンとアールフォースの有限性定理を経て、幾何的有限群の極限として幾何的無限群が構成される、とする。簡約すれば有限から無限が構成される。
「言語は有限の語によって無限に文をつくることができる。」
これをひとつの予想conjectureとするなら、大鹿はその解決 solutionのためのひとつの強い方向を示唆する。
Source: Tale / Print by LI Koh / 27 January 2012
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