Friday, 19 October 2018

TO WINTER 17 Winter comes as grace falls

17 Winter comes as grace falls
冬が来る
―この間はありがとう。ほんとうに助かった。  S駅の地下道から地上に出ると日ざしがまぶしい。待っていたIにお礼を言った。 ―どうしようと思ったんだけど、思いきって、行ってよかった。もしかして迷惑だった? Iが、きらめく光を通す木立を背にしてたずねる。 ―そんなことない。言い方がいつもたりなくて。ほんとうに感謝している。  広場の向こうを、車が重なるようにゆっくりと過ぎて行く。 ―もう大丈夫なの? ―すっかりよくなった。きみのおかげだ。 ―そんなことないわ。 Iがうれしそうに言う。広場の二人に木漏れ日が揺れている。 たえまなく行き交う広場の無数の人々の中で、Iはたったひとりの人に伝える。 ―もし元気だったら、新しくできたJ書店に行ってみない? 信号が変わって、人波がいっせいに動きだす。 ―今日はほんとうはきみにお礼をするんだった。べつになにもできないけれど。 ―それはいいの、わたしが自分でしたかっただけ。 Iがほほえみながら応える。 ―じゃ、先に本屋に行って、それからでもいい? ―ええ、私も新しいところを見てみたいわ。  歩き出すと、歩道は、肩が触れ合うくらいに人出が多い。 ―すごいね。ますます多くなる。 押されるようにして、Iは彼の腕を抱く。―だれかが言ってたわ、この街には過去も未来もなんでもあるって。 ―ほんとにそういう感じだ。 信号を待ちながら、Aは彼女に伝える。 ―ここのところでね、むかしカフスボタンを買った、たぶんこの位置のはずだ。小さい店で、今みたいに信号を待っていたら眼にと まったんだ。  雑踏で声がかき消されるくらいだ。 ―翡翠のカフス、ほとんど使わないのに。 ―あなたはいつもそう。  それが I の告白だった。 愛する人。 ―貧しくて、不遜だった。  本の重さでかたむいたカバン。中心のない、なにも見えなかった日々。 ―そんなことない。  信号が変わる。 ―むかしね。谷山豊って人がいたんだ。 A は声を大きくして言った。 ―若くして亡くなった。婚約者もたしかまもなく亡くなった。彼とその友人が作った予想が、フェルマー予想を解くかぎになった。ワ イルズという人が解いてもう十年以上になる。それで谷山の特集が雑誌に載ったことがあった。 Iはただ彼を見ている。 ―そのときね、この街だった、すごくうらやましいとおもった。雑誌は買わなかったけど、買ってもしかたがないような気がした。自 分にはそのときなにもなかったから。ただ、そんなふうに生きてみたい、死ぬことじゃないよ、一度生きるならそんなふうに生きたい とほんとうにおもった。それがたぶん自分には一生できないとわかっていたから。それが、いまは谷山のように生きている。彼のよう にすごくもなんともないけど。おもいはまったく同じなんだ。 ―すごいわね、ほんとうに。そんなにおもえるなんて。 ―きみを愛したから。  彼女の肩を強く抱く。 新しい書店が見えてきた。  二人に今、恩寵のように冬が来る。

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