Thursday, 30 November 2017

The Complete Works of TANIYAMA Yutaka,1994

The Complete Works of TANIYAMA Yutaka,1994

          
The Complete Works of TANIYAMA Yutaka, Revised Edition, 1994 always shows me the youth of the post-war mathematics in Japan. At the same time It gave me the feeling of strong longing.
When A. Wiles and R. Taylor finally solved the Fermat’s Last Theorem in 1994, TANIYAMA-SHIMURA Conjecture became famous overnight in Japan too. After the situation was settled a matter, I saw the feature articles on TANIYAMA in the journal, Mathematics Seminar at the bookshop nearby of my home.
My first impression was a longing desire to his high achievement to mathematics or studies in history. At those days I was at the midst of age 40s and did not accomplish anything on my field of language. Of course I did not desire any fame or special situation. I only hope from the bottom of my heart to propose the results that let assent to myself.
Nearly 20 years passed away since those days. Now there is any enviable thing to TANIYAMA or his colleague. Because I also discovered my aim and approach on my theme. It is absolutely same that I have not proposed anything to the learning. I only have the probably same aim that many surpassed people had or have. Merely I have not any genius to learning.
My true tiny happiness is what  I am still learning on my objects every day. It is only one that is language forever. 

Tokyo
11 November 2012
Sekinan Research Field of Language

Wednesday, 29 November 2017

Selected Essay

Selected Essay 

  1. Recent Themes 
  2. Disposition of Language
  3. Distance of Word
  4. Flow of Language

  1. CHINO, Karcevskij and Prague
  2. Half Farewell to the Linguistic Circle of Prague and Sergej Karcevskij
  3. I need not more wander the bookshop streets
  4. Prague in 1920s
  5. CHINO Eiichi and Golden Prague
  6. Coffee shop named California

  1. Enchanted with language and mathematics
  2. Andre Martinet
  3. Charles Bally 
  4. Read Andre Weil 
  5. Bourbaki' ELEMENTS DE MATHEMATIUE Troisieme edition, 1964 
  6. The Time of Language Ode to The Early Bourbaki To Grothendieck  Note added 

  1. Wandering between language and philosophy
    A
  1. For WITTGENSTEIN Revised / Position of Language / 10 December 2005 - 3 August 2012
  2. The Time of Wittgenstein /20 January 2012
  3. Citation from Ludwig Wittgenstein / 7 February 2012
  4. THE ROAD TO REALITY A Complete Guide to the Laws of the Universe, 2005 by Roger Penrose / 25 October 2012
    B   
  1. The First Paper on Inherent Time in Word / 26 July 2014
  2. 40 years passed from I read WANG Guowei / 16 November 2013
  3. Half farewell to Sergej Karcevskij and the Linguistic Circle of Prague / 23 October 2013 / With References
    C
  1. Substantiality Dedicated to SAPIR Edward / 27 February 2005
  2. Edward Sapir's Language, 1921 / 5 September 2014
  3. Macro Time and Micro Time / 24 July 2013
    D
  1. Roman Jakobson / 16 July 2012

  1. Winding road to physics
    A
  1. Now I am Enough Old for Remembering the Past / 27 September 2012
    B
  1. To my dear friend, KANEKO Yutaka / 22 May 2013
  2. Half farewell to Sergej Karcevskij and the Linguistic Circle of Prague / 23 October 2013 
  3. Perhaps Return to Physics /16 August 2014
    C
  1. Distance Theory Algebraically Supplemented / Brane Simplified Model / Bend /17 October 2007
  2. Distance Theory Algebraically Supplemented / Brane Simplified Model / Distance / 26 October 2007 
    D
  1. Substantiality Dedicated to SAPIR Edward / 27 February 2005
  2. Language, Amalgamation of Mathematics and Physics / 15 April 2014
    E 
  1. The Complete Works of TANIYAMA Yutaka,1994 / 11 November 2012
  2. Description / 15 August 2013


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03 Daphne from Papa Wonderful

03 Daphne

03 沈丁花

  春は沈丁花とともに訪れます。二月初旬のまだ寒さの強い日々に、沈丁花は風に負けない固いつぼみを膨らませ、やがて春を最初に告げる白い花を一斉に咲かせます。強い北風にも少しもひるむことなく、静かな午後には、居間からガラス戸を開いて外に出ようとするとき、かぐわしいかおりを部屋全体に満たすのです。こんなに人を励ましてくれる花はありません。冬を越えることはすべての生きものにとって、いつも厳しい選択を迫ります。おまえはまだ生きようとするのかと。この寒さを乗り越えていく力をおまえはまだ持っているかと。

 そうすると人を含めたすべての生き物が一瞬たじろぎ、自らのエネルギーがもう底をつきそうなことに気づくのです。そのとき窓の外の冷たい風の中に白く咲く、沈丁花の花を見つけてほっとします。もう大丈夫、春はそこまで来ているのだから。強い風も強い寒さももうまもなく消えて行くでしょう。うすぐらいどんよりとした午後の中にそこだけがまるで一条の希望のように輝いています。泰西の詩人はかつて歌いました、希望はいつも厩のわらのひとすじのように輝くのだと。

 こんなに弱ったあなたももう大丈夫です。花のかおりに包まれているならば。明日はきっと、かすかな柔らかいひざしが窓辺に一瞬訪れるでしょうから。そんなふうに沈丁花の白い花が、今日も伝えているのです。


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Monday, 27 November 2017

31 A book from Papa Wonderful

31 A book

31 一冊の本

 近年、郊外型の古書店が増えて、田所さんの隣の市にも今では二軒あるようになりました。古書店といっても、かなり大きなもので、一般の書店と変わりません。少し古い本がかなり安く求められるので、田所さんの兄弟も休日などにそれぞれが自転車を走らせて出かけていきます。帰りにはかなり重そうなビニール袋をさげていることもありますが、総額でもこどもの小遣いで十分まにあうことが多いのです。そんなわけで田所さんもときどきこどもと一緒に出かけていきます。こどもが疲れているときは、おとうさんの車はちょうどいい送迎車になります。こどもと一緒に、ときには妙さんも加わって、それぞれがめいめい好きな本を探すのはなかなか楽しいものです。原則としてはこどもはこどもの小遣いから払うわけですが、それをたまに田所さんや妙さんが払ってやると、こどもは「やったあ」と言って喜んでくれます。金額の多寡とは関係ないのです。その小さな歓声は、二人の大人にとっても楽しいものでした。明るい店内はそれだけでどこか祝祭めいていて、お祭りはやはりこどもが主役ですから、大人もこうして祝祭の剰余を分けてもらえるのだと、田所さんは思っています。

 そんなある日、夏休みも終わりに近い夜、買い物のついでに、兄の高彦くんと一緒に古書店に出かけました。高彦くんは本屋さんが大好きなのです。家についで人生で二番目に長くいる場所だとよく言っています。

 その古書店は今年の春できたもので、その日行くのが初めてでしたが、店舗全体がはなやかな黄色でしたから道路からもすぐにわかりました。店内は思っていた以上に充実していて、田所さんはそこで、なつかしい岩波新書と再会しました。といってもその本をかつて一度買ったというのではありません。高校生のとき本屋さんで立ち読みしただけなのです。それをそんなによくおぼえているのは、やはりその本が高校生であった田所さんの思考の重要などこかに触れていたからなのかもしれません。

 本の表題は『生命とは何か』、著者は物理学者のシュレディンガーです。高校生の田所さんがこの本に注目したのは、たぶん著名な物理学者が生物学の本を書いたからでしょう。シュレディンガーの名前は高校生の田所さんでも知っていたのです。副題は「物理的に見た生細胞」となっています。この辺にきっと惹かれたのでしょうか。高校生の田所さんは本屋の店頭で立ち読みし結局購入しないでしまいました。岩波新書は当時低額で高校生でも容易に買えるものでした。それをかなり長い間立ち読みしたのに購入しなかったのには彼なりの判断が当時あったのです。彼はその本を全体として少し無理があるのではないかと高校生なりに判断したのです。その判断は、現在からすれば、半分は正しく、半分は正しくなかったといえるかもしれません。

 今改めてページを繰りますと、その第五章は「デルブリュックの模型の検討と吟味」となっていて、のちには分子生物学の基礎を築いたことが明瞭となったデルブリュックの存在にいち早く注目しながらも、そこで展開されるのは全体的には細胞の持つエネルギー的な側面のみの検討であり、またそこに一貫して流れる論理は第六章「秩序、無秩序、エントロピー」という表題でほぼ推察できるように、生命エネルギーのマクロ的な検討であり、その後の分子生物学が確立するに至る遺伝子の構造的な面の追及はまったくなされていません。後世から見れば科学史的な限界とも言えますが、それを離れても生物学としては論理の展開に微妙な齟齬が感じられ、それが直感的に高校生の田所さんを立ち去らせた原因であったのかもしれません。

 ちなみに原書の発行は「まえがき」などから1944年、岩波新書としての第1刷は昭和26年、西暦にすれば1951年のことでした。

 ワトソンとクリックが「ネイチャー」誌へDNAの論文を送ったのが1954年ですから、シュレディンガーの本はその十年前ということになります。高校一年の田所さんがこの本に出会ったのが1963年です。DNA発見から十年目にあたります。ワトソンとクリックを知らず、多分DNAの発見も知らなかったでしょう。知っていれば、シュレディンガーの本の思考の方向の微妙なずれに、高校生であってももっと直接的に反応していたでしょうから。

 しかしこの本をDNA発見の先蹤として位置づけること自体に、きっと無理があるのでしょう。そのように位置づけるよりは、いま古書店で手にした本を開きながら目につく、最終章である第七章の「生命は物理学の法則に支配されているか」という表題やそのあとのエピローグの「決定論と意思の自由について」という表題に示された、文明がもしかしたら機械論的方向へ向うかもしれないという現代の入口にあって、物理学者であるがゆえになさずにはおれなかった主張といってもよいのではないでしょうか。もっと短絡的にのべれば、この本の中には通奏低音的に当時振興しつつあったソ連をはじめとする社会主義国家への拒否とまでは言わないまでも茫漠とした怖れがあったように感じられます。そう見るならば著者の本来の主張を超えて、この本はあらゆる本がそうであるように、著者の意図を超えたところで時代的なポレミックな面を持っていたと言えるかもしれません。しかしそれは、ベルリンの壁が崩壊した今だからこそ、田所さん自身が明確に感じ取れるのであって、高校生のころにはまず全く無理なパースペクティヴであったでしょう。ただ若い直感によって、現代の進行方向を読み取ろうとしていたのかもしれません。

 DNAに関していうならば、田所さんは、ワトソンとクリックよりは、デルブリュックやワシントンや「とうもろこしおばさん」バーバラ・マクリントックなどに興味をおぼえます。そこに田所さんが今、歴史と呼ぶものが確固として存在するからです。歴史は事実の集積ではなく、事実が指し示す方向なのです。今どこを向いているか、どこをめざしているか、それこそが歴史と呼ぶに値するものだと、田所さんは思うようになりました。DNAは発見されたのではなく、生成されたのです。しかしこの考えもまたひとつの見方、チョムスキーなどの生成文法の影響であるかもしれませんが。

 田所さん自身が一人の時代の子なのです。

 またマクリントックについては、柳澤桂子さんがその自伝的書物『二重らせんの私』の中で感動的な出会いを述べておられることを田所さんは忘れることができません。

 こうして古書店は思いがけない大きな恩恵を田所さんに与えてくれました。高彦くんも文庫本を二冊ほど安く求めることができ、二人は充実した晩夏を楽しんで家に帰りました。


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48 Letter from Papa Wonderful

48 Letter

 48 手紙
  
    本を読んでいるときはときが静かに流れると述べていたのは、吉田健一さんであっと思いますが、文学の中心はもうそれで尽きているでしょう。ですから私がここでさらに付け加えるのはその周辺のことに過ぎません。文学は防御になるというのが、私の結論です。何の防御であるかというと、心とかたましいとか人生とか、そんなふうに呼ぶものに対してです。


 ここでいう文学とは、詩や小説で代表されるいわゆる文芸にとどまらず、ときには新聞の断片や広告の文面にまで及びます。戦争で兵士が、薬の効能書きを何回も読みなおしたという話を聞いたとき、戦争の悲惨さとその中でのかすかなやすらぎとが私の中で混在し、それと同時にその混沌の中からも私は文学の防御を感じとっていたのです。

 私は、ここでは心ということばを使うことにします。文学は心を防御するのです。人の心は傷つきやすいものだと私は思っています。なにもなければ、多分容易に傷ついてしまうものではないでしょうか。文学が人の心を救うことができるかどうか、私にはよくわかりませんが、傷つきやすい心に一定の防御を与えることはできるのではないでしょうか。

 河上徹太郎さんの『有愁日記』の中で、私が幾度か読み返したのは、マラルメやラフォルグの詩のことを述べていたところです。「シンバルを叩いたような秋」ということばを私は見なれた日本の澄明な秋に置き換え、自らの周囲にある黄金色の黄葉に対比していました。たわいないことと言えますが、それでもこのマラルメのことばが、ときに沈んだ私の心を引き立ててくれたことは確かでした。しかしもし私の心が沈んだままだとしても、このことばを通してひとつ秋が私の前に現前し、その実在感は、私が実際に見た秋の記憶と決して遜色のない印象を私の心に与え続けてきたのです。私の中の実在感はこの「秋」の経験にとどまらず、いろいろなことばを通してそこからの新たな実在感を私に与えてくれるのでした。

 「天使の優しさで降る雨」と言ったのはラフォルグだったでしょうか。こうしたことばが私の心にひとたび定着すると、雨はいつもその優しさで降るのでした。単純と言えばこの上なく単純ですが、きっとこうした経験は誰にでもあるでしょう。それを私は自らの喜ばしい経験としてとらえ、大切にはぐくんで来たといえるかもしれません。両方のポケットを何回裏返しても、出てくるのは屑ぼこりだけだった私の数少ない財産がそうした断片的なことばの集積だったのです。

 河上徹太郎さんからは多くのことを教えてもらいました。それらが青春の私の心を防御してくれたのです。葛西善蔵の「子をつれて」で父親がこどもと一緒にガラス戸を開けて食堂へ入っていくところは、私に限りない安堵感を与えてくれました。その安堵感のどこかに「子なるキリスト」の投影があったのかもしれませんが、そうした自己分析はいわばその論理性そのものに邪魔されて心のより深いところへは遂に行き着かなかったようです。 論理はときには容易に体系の一部に組み込まれるものですが、感覚はそのどこにも属さず中途半端なままにその主張を止めないでくれることがあるものです。文学はしばしばそのような役割を心の中で演じましたから、理詰めで説教する親のことばとは違って、部屋に戻って聞く聞きなれたカントリー・アンド・ウエスタンのように心に染みてくるのでした。

 もしも私の若い心に葛西善蔵の「子をつれて」がなかったなら、私の心は近づいてきた任意の宗教に心動かされたかもしれません。その方があるいは幸せとなったかもしれませんが、私自身はそうした方向をとることなく、幾度も彷徨を繰り返しながら現在にまで来てきてしまったということになります。「子をつれて」の風景は私の心の中で未分化なまま、今も深い安堵感を私に送り続けてくれるのです。同様に「天使の優しさで降る雨」は冷たくぬれた私の心を、あたたかな優しい世界へと変えてくれたのです。

 ことばは別に魔法使いではなく、マジックでもなんでもありません。それはひとつのメッセージを伝えて寄越すに過ぎません。ただそのメッセージは、画家が作り出す色彩が画面の奥から光をともなって輝き出すように、人の心にひとつの実在となって届くのです。往々にして未熟な自らが体験したこと以上の実在感をともなって。そういうメッセージのいくつかが重なると、傷つきやすい心はまるで頑丈なビーバーの巣のように、大きな熊からもその子を護ってくれるのです。どんよりとした空にシンバルの秋を感じ、子をつれたわびしい父が暗いはだか電球の明かりの中から至高の優しさを読むものに贈ってくれるのです。

 文学がひとつの付加価値として防御能力を持っているというのは、以上のようなことなのです。

Sunday, 26 November 2017

29 Forced Termination from Papa Wonderful

29 Forced Termination

29 強制終了

 コンピュータを使っているとときどき強制終了の表示が出て、困ることがあります。だいたいはうまく回避することができるのですが、ときには一切の操作を受け付けなくなってしまうことがあります。そのときはまさしく強制終了せざるを得ず、そうすると画面が真っ白になり、最初の画面に戻ってしまいます。田所さんも最初は急いでキーを操作して画面を真っ白にしたことが何回もありました。

 田所さんの場合、強制終了が表示されるのは、ワープロを用いているときで、それもそうなるときの状況はいつもだいたい決まっています。ワ-プロのキー操作がそれほど早いわけではありませんが、それでも指使いによってはある程度早くなることがあり、その二つの指の打鍵が時間的にほとんど重なっときのある種の場合に(全部と言うわけではありません)強制終了の表示となることが多いようです。思うに,同時打鍵によってコンピュータにほとんど同時に指令が出されたとき、コンピュータの頭脳がどちらの仕事を選んで行えばよいのか、混乱してしまうからではないでしょうか。

 それにしてもワープロなどのソフトは、ウインドウズなどのOSの上に載っているわけですから、もしも指使いなどで真正の誤作業が仮にあったとしても、OSには直接響かず、かなり安全度が高いはずなのに、強制終了などの一種の誤動作回避表示がなされてしまうのです。別にコンピュータ本体が悪いというふうにも言い切れません。たぶんにソフトの問題もあるでしょう。また再起動すれば普通に動くのですから。しかしコンピュータが自己判断に迷ってしまう状況が決して少なくない回数であることは事実です。ですから田所さんは、コンピュータ的なシステムが、ある条件のもとではかなり不完全になることがあるのを、身近な経験として知ってきました。

 田所さんは1980年代半ばには、半分以上は実験的なものであった8ビットのコンピュータを使っていました。OSはデジタル・イクイップメント社のPC/Mというものでした。当時としては、優れたOSであったと思われます。そこに5インチの今ではもう使われなくなった薄いフロッピーを入れるのですが、そのフロッピーディスクドライブがときどき暴走を起こすのです。いつまで経っても回転し続けるのです。そこでやむなくメインスイッチを切ってドライブを終了させることになります。そういうことが何度もありました。ちなみに同じフロッピーディスクドライブを使っても、ソフトがBASICのときはそのような暴走は一度もありませんでした。PC/Mの方がOSとしてはずっと複雑でしたから、そのとき使用していた8ビット機では機能的な処理が苦しかったのかもしれません。田所さんの知識では,そうした暴走の真の原因はもちろんわからなかったのですが、コンピュータには誤作動がかなりあることだけは、大事な経験として持ち続けてきたことになります。

 ですから、現在も放送や新聞で、高度な科学応用システムなどの安全性が問われるとき、関係した部門のたぶん広報担当者が、このシステムはきわめて安全なものですと言い切っているのを見聞きしていると、その言明自身がすでにきわめて非科学的であることを感じずにはおれません。ですから、そのシステムにもし事故が発生したりすると、担当者はこのシステムでは全く及びもつかなかった事例ですなどといつもいつも全く同じように答えるのです。これはその人が科学に携わる人ならば、言いかえればそのようなシステムの安定性・不安定性を知っている人ならばということですが、まったく人をだます欺瞞以外の何物でもないと思います。

 もともと科学システムに万全などあろう筈がないのです。低い確率でいつも事故は存在するのです。「全くおよびもつかないこと」がいつでもある一定の確率で存在しているのです。パソコンのフロッピーディスクドライブはかつて原因不明で暴走し、今もワープロソフトが突然に強制終了に至るのです。電気信号の流れである以上,これからもそれが起こる蓋然性を無にすることはできないでしょう。信号そのものはいつも流動しているからです。すべては電子の流れなのですから。システムの基盤のほとんどにコンピュータが介在する現代は、その点からきわめて不安定なものの上に存在するものです。膨大な資料がコンピュータ打鍵の二三操作で完全にこの世界から消滅してしまうのです。これがたとえば原稿用紙でしたら、一日中庭で焚火する材料として十分なものでしょう。

 コンピュータ社会では、ですから常に失敗を救うフェイル・セイフの施設が必要になってきます。先に述べた強制終了によるワープロ原稿の白紙化も予防するシステムが考えられています。自動バックアップ・ユーティリティなどと呼ばれるものです。これを用いれば、かなり安全度の高いハードディスクに自動的に分単位で不安定な画面上のデータを格納してくれるのです。これもまたひとつの電子システムですから完全とは言い切れません。そこで必要ならばさらに別のバックアップの方法を用意することになります。このようにしていくことでほとんどの、例外的な事故を防ぐことが可能でしょう。それでも一挙にデータが壊滅する危険性がないわけではありません。たとえばきわめて強力な信号たとえばウイルスが,瞬間的にすべての機械内部に入って、データなどを変質させることがないとは言い切れません。何しろ実体は1秒間に地球を何周もする電気信号なのですから。

 フロッピーディスク・システムの暴走は今も、田所さんに多くのことを教え続けています。あまりにも非科学的なことを科学の周辺に従事する人たちが述べたりすると、もっともフェイル・セイフを必要とするのは他ならない人間そのものではないかと、思うことがあります。さらに正確に言うならば、それらの人を含む組織、システムにこそフェイル・セイフが必要でしょう。あるいは現在も広く通行している次のような非科学的な論理をまず正さなければならないでしょう。

「このシステムは完全ですから、それを予防する方法は必要ありません。」

「この完全なシステムに事故が起こったのは、全く予期できないことでした」

「全く予期できないことでしたから、責任はありません」


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Papa Wonderful English contents

Papa Wonderful
すてきなおとうさん
00-00 すてきなおとうさん Papa Wonderful
00-01 この小さな家に To this little house
01 はじまり Beginning
02  春の雨 Spring rain
03 沈丁花 Daphne
04 丘陵 Hills
05 新しい家 New house
06 兄弟 Brothers
07 ランニング Running
08 居間 Sitting room
09 ソファー Sofa
10 庭 Garden
11 バラの日々 Days of roses
12 植物画 Botanical art
13 レパートリ Repertory 
14 観葉植物 Foliage plant
15 レンガの道 Brick lane
16 松村おばさん Mrs Matsumura
17 百瀬先生 Professor Momose
18 佐藤さん Mr. Sato
19 近代 Modern times
20 大学 University
21 歴史 History
22 ツバメ Swallow 
23 贈り物 Present
24 麦畑 Wheat field
25 外国語 Foreign language
26 キャンプの準備 Preparation for camping
27 コンピュータ Computer
28 時代 Days
29 強制終了 Forced termination
30 再会 Reunion
31 一冊の本 A book
32 自由選択 Free choice
33 秋の庭 Autumnal garden
34 つぼみ Buds
35 フォークリフト Folk lift
36 お月見 Enjoying the moonlight
37 写真 Photograph
38 声門閉鎖 Glottal stop
39 十月の花 October flowers
40 研究会 Society for the study
41 市民講座 Course for the citizen
42 譚嗣同 TAN Sitong
43 歴史における自由の観念について On the concept of freedom in history
44 世界表現 Representation on the world
45 一回性と自由性 Mono-occurrence and free confirmation
46 待合室で読む本 The book to read at waiting room
47 意味 Meaning
48 手紙 Letter
49 時雨 Drizzle rain
50 クリスマス・リース Christmas wreath
51 部屋飾り Room ornament
52 歳晩 Year-end
53 見知らないあなたへFor you that I do not get to know
54 雑踏  Crowd
55 いつかまた Someday again

Tokyo
21 June 2017

Sekinan Library

Papa Wonderful Contents

Papa Wonderful Contents

すてきなおとうさん

00-00 すてきなおとうさん
00-01 この小さな家に
01 はじまり
02  春の雨
03 沈丁花
04 丘陵
05 新しい家
06 兄弟
07 ランニング
08 居間
09 ソファー
10 庭
11 バラの日々
12 植物画
13 レパートリ
14 観葉植物
15 レンガの道
16 松村おばさん
17 百瀬先生
18 佐藤さん
19 近代
20 大学
21 歴史
22 ツバメ
23 贈り物
24 麦畑
25 外国語
26 キャンプの準備
27 コンピュータ
28 時代
29 強制終了
30 再会
31- 01 一冊の本
31- 02 一冊の本・続き
32 自由選択
33 秋の庭
34 つぼみ
35 フォークリフト
36 お月見
37 写真
38 声門閉鎖
39 十月の花
40 研究会
41 市民講座
42 譚嗣同
43 歴史における自由
44 世界表現
45 一回性と自由性
46 待合室で読む本
47 意味
48 手紙
49 時雨
50 クリスマス・リース
51 部屋飾り
52 歳晩
53 見知らないあなたへ
54 雑踏
55 いつかまた

17 Professor MOMOSE from Papa Wonderful

17 Professor MOMOSE


​17 百瀬先生

 百瀬先生は言語学の先生です。田所さんは百瀬先生から、二十代の学生のときにはロシア語を、三十代の聴講生のときには言語学を、教えてもらいました。失礼な言い方かもしれませんが、長いお付き合いということになります。その年月の間に、田所さんが年を取った分だけ百瀬先生も年をとりました。先生と田所さんは十歳くらいしか年がはなれていません。田所さんが大学三年でロシア語を学んだとき、百瀬先生はまだ三十代のはじめだったはずです。

 先生は教室にはいってくるときよくスポーツ新聞を持っていました。先生がどこの野球チームのファンであったかもう忘れましたが、先生のひいきのチームが勝ったときは、なんとなく楽しそうな始まり方をしました。

 三十代で聴講生であったとき、毎年のように先生の言語学を聴いていましたが、年度の初めに教室で先生にお会いすると、「田所君、もう来なくてもいいんじゃない」とよく言われたことをおぼえています。

 言語学の細かい内容の多くはもう忘れてしまいましたが、それでもいくつかは鮮明におぼえています。ひとつはカルツェフスキーの「言語記号の非対称的二重性」の話、もうひとつは「プラハ言語学サークル」の存在です。それらの内実についての田所さんの感嘆は、ことばのようなとりとめもないものに対してよくそんなに理論を積み重ねていくことができるものだということでした。

 カルツェフスキーの話は、ことばというものがいかに柔軟なものであるかということを田所さんに教えました。またプラハ言語学サークルは、歴史が進行するなかで、ひとつの存在がいかに歴史のもたらす埋没性に抵抗できるかを、田所さんに教えました。プラハ言語学サークルは、第二次世界大戦後、構造主義の名の下に大きく世界に広がりました。構造言語学、とりわけ音素の二項対立、構造主義人類学への発展、数学におけるブルバキ集団、ヤーコブソンとレヴィ・ストロースとのニューヨークでの出会い、トゥルベッコイの音韻論。どのひとつをとっても、めくるめくような理性の営みでした。

 百瀬先生は、ことばが、ひいては考えることの柔軟さが、いかなるときにももっとも大切なもののひとつであることを、いつもていねいにさまざまな例を引きながら教えてくださいました。

 先生とはそれからもう久しくお会いしていません。長い年月をかけて無事大書を編集・完結なさったことなどをゆっくりお聞きしたい気持です。いつかまたあの古ぼけた階段をぎしぎしと上って、たしか「カルフォルニア」という名前であった喫茶店で、当時先生がもしかしたらほんとうに真剣であったかもしれないインベーダーゲームのことではなく、ただ一杯のお茶を飲みながら、音韻論や意味論でもない、すでに亡くなったやさしい人々の声音と、もどることのない人生の意味について、先生から親しく教えていただきたいと思っています。


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33 Autumnal garden from Papa Wonderful

33 Autumnal garden

33 秋の庭

 秋の庭は少しさびしくなります。バラはまだ幾度めかの花を咲かせますが、花はようやく小ぶりになってきました。注意していたにもかかわらず、うどんこ病と黒班病にやられた一部は早く葉が黄ばみ、秋の雨に落ちてしまい、幹だけがややさびしそうです。

 それでも紫式部の実が秋の雨の後に一挙に色をつけ始めました。水引草が赤い穂状の花をたくさん咲かせています。サザンカはつぼみが十分にふくらみ、間もなく白いふくよかな花を毎朝見せてくれるでしょう。シャラの木はその堅い葉をもう褐色に色づかせ、まもなく訪れる秋の強い風にまたたくまに散っていくでしょう。サルビアの白い花が伸びきった枝に最後の花を咲かせ、早朝の庭は、散った白い花で埋まります。

 ベニカナメもさすがに新芽を出すことが少なく、秋の姿へと変わってきました。キキョウが時折名残のように青紫や白い花をのぞかせますが、もう咲き始めのいきおいはありません。リンドウは根付きがむずかしく、今年もあまり元気がありません。ただ萩の花だけがいきおいよく咲き続けています。去年も咲いた山吹の夏の花ももう終わりました。季節は確実に寒さへと向っていきます。

 来年はクレマチスの花を咲かせたいと、小さな苗を秋の始めに買ってきたのですが、少しずつ伸びてきたので、絡みやすい添え木が必要になりました。菊がたくさんのつぼみをもたせて雨に耐えている姿は、こどものころに見た風景と少しも変わりません。裏庭の丸菊は名前のとおりに何もしないのにきれいな丸型に花のつぼみを集めています。安彦くんが夏休み前に学校からもらってきたそばの花が白く可憐に咲き、すぐに三角状の実をつけました。

 ウメモドキが今年は少なめに、その代わりに実は大きく赤く染まり、南天の実もまもなく色づき始めるでしょう。花の一年は人の世の一生によく似ていると思います。ただ花は他生を繰り返すのに、人は一生を生きるだけです。キリストのいわれた「野の白い花のように」は決して比喩ではなく人の世の表象でした。再生もまた花を見ていると必然と思われ、パスカルが『パンセ』の中で、二度生きることが不思議なら一度生きることも不思議だと書いていましたが、根源的には私たちの一度の生の不思議さに行きつくでしょう。

 花は人を哲学者にします。人は花に何を与えるでしょうか。


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30 Reunion from Papa Wonderful

30 Reunion

30 再会

 田所さん一家が山形に旅行したのは、八月の下旬でした。四泊五日、全行程を車で移動し、運転は田所さんと妙さんが交互にしました。旅費を少なくするために、前の二日は自炊の町営の貸別荘、後の二日は国民宿舎を利用しました。

 一日目は圏央道から関越自動車道に入り,東北自動車道を村田まで北上し、山形自動車道に入り、山形北で降りて山寺・立石寺に上りました。その日は月山のふもとの西川にある町営の貸別荘に宿泊。二日目は月山に登る。快晴の一日でした。降りてきて同じところに宿泊。三日目は移動日で山形自動車道が一部未開通のため国道112号線を北西に進み、湯殿山に心惹かれながら直進、庄内平野に出て鶴岡で昼食、致道館と鶴岡城址を見る。ふたたび国道112号線に乗り日本海側を北上、遊佐町の国民宿舎で宿泊。四日目は鳥海山を予定の七合目まで上りそこで昼食を取って下山。ビジターセンターを見学してから宿舎に戻ると激しい夕立。良い選択でした。五日目はまた112号線を南下,途中から国道7号線に入り、日本海沿いを走ります。新潟市に入って、北陸自動車道に新潟空港から入り長岡からは関越自動車道、スキーで毎年三月に訪れる湯沢を横に見ながら進み、鶴ヶ島で圏央道に入り午後二時過ぎに無事自宅に到着。全行程1150キロ、太平洋側から日本海側へ横断する、久しぶりの長旅でした。

 一日目に行った山寺へは、田所さんは大学を終えてまだまもないころ、最初に勤めた会社の夏の旅行で一度訪れていました。今からもう三十年ほど前になります。もちろんまだ独身で結婚のことなどほとんど考えることもなく、電気部品の在庫管理の仕事に夢中でした。1970年代の始め、大阪で万国博覧会が開かれた直後で経済は大きく飛躍し、田所さんも含めて多くの人が大量消費社会の到来にいやおうもなく飲み込まれていたような時代でした。未来学ということばが生まれ、将来の食事は丸粒三つぶを飲めばそれでよいというようなことがある種の現実感を持って受け入れられるような楽天的なところがありました。そのかたわらで水俣病で代表される公害の実態が次第に明瞭になり、ユージン・スミスさんが撮った水俣病母子の写真が時代の進行の一面を予告するかのような強い衝撃を与えていました。

 今年の春になって妙さんがいつものように夏の旅行の計画を立て始めたとき、そのうち一度山形を見て回りたいねという話がすでに何回か二人のあいだで出ていましたから、山形行きはまもなく決定の運びとなりました。場所も山寺・月山・鳥海山があまり迷うことなく決まりました。二人とも山が好きでしたから、山の雑誌に月山と鳥海山の高原湿原のうつくしい写真が載ったとき、田所さんはそれをすぐに購入し大切に保存しておいたのです。二人とも花にも惹かれていましたから、月山の弥陀ヶ原と念仏ヶ原の夏の写真はもはや何のことばもいらないものでした。澄んだ空と草花とさわやかな大気。鳥海山七合目にある鳥海湖の写真もすばらしいものでした。

 こうして訪れた山形は、予想にたがわず家族四人に多くの思い出を残してくれました。なかでも田所さんにとって感慨があったのはやはり山寺でした。一度訪れてからすでに三十年近くがたったのです。その時間の経過がまずなによりも不思議でした。三十年という歳月は一人の青年を四人の家族に変えていました。当時の在庫管理の仕事も充実してはいましたが、自らをもう一度振り返りたいためにふたたび大学で学ぼうとし、その間に仕事も現在のところへと変わり、住まいも幾度か引越しをしながら今の場所でなんとか落ち着きを得ました。二人が働いていたため小さいころは保育園で育った兄弟も、高彦くんはすでにおとうさんの背を超え、安彦くんももう少しで妙さんを超えそうです。時間は確実に流れていきました。

 今回山寺に行って気づいたことは、山寺を開いたのが、円仁というお坊さんだったことです。山内のいちばん古い建物は、小高い岩の先端にある円仁のために造られた赤い小さなお堂であることも今回初めて知ることができました。田所さんがこんなにも円仁というお坊さんにこだわるのは、歴史を学んでいるうちに、円仁が書いた『入唐求法巡礼行記』という本を読んでいたからです。この本は円仁が唐代の中国を旅行した克明な記録です。しかもこの本を知る直接のきっかけが、田所さんの場合は、アメリカ合衆国の駐日大使であったライシャワーさんが書かれた本『世界史上の円仁-唐代中国への旅』に拠っていたことです。ライシャワーさんはフランスのパリ大学で学んでいたときポール・ドミエヴィル先生から円仁の本のことを教えられ、その本の翻訳と研究に二十年間専念されたと述べておられました。田所さんはドミエビル先生の慧眼にも、ライシャワーさんの研究にも深く感動しましたが、それらを超えてもっとも強く心打たれたことは、学問や文化というものが、時代や国境を超えて連綿として受け継がれていくということに対してでした。日本の平安時代の仏教僧円仁・彼が細かに記録した中国の唐という時代・フランスのドミエヴィル先生・アメリカのライシャワーさん・日本で詳細な研究をまとめられた小野勝年先生、それらがまるで見えない糸にたぐられるようにつながっていくのでした。

 この事実がどのようなことよりもより深く田所さんに国際的ということの意味を理解させてくれました。その後田所さんは仕事の合間を縫っては、冬の奈良を訪れるようになりました。そのときの思いは、日本の古い都というものではありませんでした。冬の底冷えのする静まりかえった奈良が、ギリシャのアテネやフランスのパリのように、大きな文化の拠点として田所さんの心を魅了していたのです。

 田所さん一家は山寺を降りて板そばを食べ、おなか一杯になったあと、新しくできた立谷川対岸にある山寺芭蕉記念館を訪れました。真新しいきれいな記念館には、芭蕉や近代の正岡子規の短冊がいくつも展示され、ここでも田所さんはかつて、中国語を学び始めたころ、自らのアイデンティティの揺らぎに対して、大げさに言えばアイデンティティ再建の役割を果してくれたのが芭蕉のいくつかの詩文であったのです。短冊に記された「はせを」という芭蕉自らの署名に、田所さん自身の青春の彷徨が重なっていました。妙さんが「ここにもはせをって書いてある」といぶかしげに読んでいるのにも、「それはね芭蕉のこと」と笑って伝えられる自分の現在を、幸せなことだと思えるようになっていました。

 そしてさらに再会の旅は続くのでした。みんなで芭蕉記念館の見学を終えて外に出ると、その右手にきれいな小公園のようなところがあり、その中心にひとつの石碑が立っているのに田所さんは気づきました。妙さんと兄弟二人は風に揺れる幟をみつけ、なにかおいしいものでもありそうだと、向いのお店の方に行ってしまいました。田所さんは一人、その石碑に近づくと、それはライシャワーさんの記念碑でした。

 そこにはライシャワー夫人ハルさんの訳文で、ライシャワーさんのことばが記されていました。山形は「日本の本来の姿を思い出させる美しい所です。それは、松尾芭蕉が300年前にかの有名な旅行で山形を訪れた時に目に映ったものであり、私自身が20年以上も前に山形に旅した時に感じたものです。」とありました。

 ここに円仁ということばは出て来ませんが、ライシャワーさんが山形を訪れたもっとも大きな目的が円仁の研究にあったことはまずまちがいありません。円仁が山寺を開いたお坊さんすなわち開基であったからです。

 田所さんは三十年前ここを訪れたとき、円仁のことはまったく知りませんでした。その後に歴史を学びなおすこともまだ人生設計の外にありました。まして妙さんと結婚することも二人の兄弟をこどもに持つこともすべては未来のことに属していました。

 そして事実は現在のように進行したのです。  

 田所さんが石碑の前にたたずんでいるうちに、三人が戻って来ました。三人の気を引くようなおいしいものはなかったようです。今日の夕食は宿泊地の外でバーべキューをする予定で妙さんがいろいろな材料を仕入れてきています。幸いに空は暑く晴れ渡って、白い雲がまぶしいくらいです。これならば今日は満天の星空の下で食事ができるでしょう。炭もいつものように兄弟二人が上手におこしてくれるでしょう

​28 Days from Papa Wonderful

28 Days

28 時代

 時代の変化をその只中で知ることはむずかしいことだと、半世紀を生きてきた田所さんはいくつかの実感をともなって思わずにはいられません。人がちょうど雲の中を歩むときに、その下か上かならば苦もなくわかるに、中にいる人はそこに雲が存在することに気づきにくいのと同じです。 

 田所さんがコンピュータの基礎を学び始めたころ、一つのことに気づいてしばらくの間は茫然としてしまいました。それはコンピュータ言語を含む多くのソフト群が、どうやらアメリカにおいて1960年代から1970年代にかけて、陸続と生まれていたらしいということに気づいたときでした。1960年代末といえば時代が騒然としていたときで、田所さんの大学時代のことです。それを言い訳にすることはできませんが、田所さんは大学でほとんど勉強をしませんでした。ですから彼は三十代でもう一度大学に戻ることにしたのです。他の国々の若い人々もまた全体に騒然としていたと思いこみたいところですが、社会が騒然としていたこととその中で個人がどのように生きていたかということとは、当然のことですが直接的にはつながっていないのです。臆病な田所さんが自己に対する厳しい決断をすることもなく大学や市街でうろうろしていたころ、アメリカ合衆国の決して少なくない若い一群が、時代の波に飲みこまれることなく、ひたすら研究に努めていたらしいことを、田所さんは、コンピュータ技術の進展を跡づけるいくつかのアメリカのエッセイを読んで知ったとき、ほとんど悔恨に近い思いを抱くようになっていました。なぜなら田所さんの1960年代末についての主観的でパセティックな時代認識は、それから二十年近いのちになって、すなわちコンピュータが社会の表面に出てきたときになって初めて、井の中の蛙的な小さな放浪に過ぎなかったのではないかと思えるようになっていたからです。

 その悔恨の中心に何があったかは、今やもうはっきりしていました。60年代末に一人の若者であった田所さんは、自らが今何をなすべきかを全くといってよいほど知らなかったのです。基礎的な高校での勉強と相応の受験準備のあと、大学に入って一挙に広がった知的社会に直面したときも、当時の田所さんには自らの判断で歩むことは困難でした。ニュースや新聞や、そのころはまだ色あせなかった知識人という一群の人々のたぶん誰かのうしろについて、田所さんは自らの知的世界を形成していたのです。当時の田所さんにとってはそれが精一杯であったのかもしれません。そこまでは仮に認めることにしましょう。でもそのあとが悪過ぎました。田所さんは二十代前半で形成した価値を、後生大事にそれがあたかも自分の純粋さの証明であるかのように持ち続けてきたのです。根本的な批判や懐疑を自らに向けることはしなかったのです。三十代に聴講生になったときにもやはりそうでした。ふたたび大学で、今度はまさしく自らの意思で歴史や哲学や語学を学び始めたと思っていたにもかかわらずです。

 ひとことで要約するならば、田所さんの1960年代末はアメリカ映画の「いちご白書」の時代だったのです。一人一人がどんなに片隅にいても、充分にヒロイックでした。なぜならば意識としてかかわったたぶんすべての人が、自己のためにではなく他存在のために行動していたからです。なにが他存在であったかは人によって異なっていたでしょう。とにかく自己のためにではなかったのです。それは一種清潔な不遜さであったがゆえに、田所さんの中でながく壊れにくく残ったのです。

 1980年初頭、田所さんの前には圧倒的な大きさで、アメリカのコンピュータ理念が存在していました。理念と言ったのは、それが技術だけでもなく、文化とも違う、学問とも違うものだったからです。それは何か巨大な複合物でした。その根本には、どのような権威にもよらない個の主張がありました。田所さんは、いくつかのコンピュータ雑誌を読みながら、牧場のゲイトウェイや納屋から生まれたコンピュータ製品とその基礎となっている種々の言語を含むソフトの集積に圧倒されていました。しかしこれもまた、新しい他者への依存なのだろうかと、田所さんのかすかな批判精神は問いました。しかしコンピュータにかかわるこの知的集積体は決して一朝にできるものではなく、またその継続はいかなる形でいかなる人たちによってなされていたのか。答えは明瞭でした。1960年代から、たぶん主に田所さんと同じ若者たちによって、途絶えることなく、またあの混沌とした「イチゴ白書」の世界を少しも否定することなく続けられてきたのです。混沌と矛盾があったことは事実でしょう。そのことを無視して、ただ混沌という現象だけを見てその時代を否定する人がいますが、その立場には田所さんは今もなお組みしません。ただその時代の生き方で補えることを考えるならば、そのとき否定だけではなく同時に、未来に向って時代を実り豊かに生きようとする方途もあったのです。この未来に向ってという観点が田所さんには決定的に欠落していました。この点で田所さんの時代的失敗は決定的でした。自らが未来に向ってどのように生きるかということを掘り下げて考えることなく、自己に直接責任のない過去否定に自らの主要なエネルギーを注いでいたことは、今となってはもはやどうすることもできないことですが、苦い悔恨を残さずにはおきませんでした。ボブ・ディランの「風に吹かれて」はその意味でも、実に時代象徴的な歌でした。感傷的に「風が知っているだけ」にしてしまってはいけなかったのです。別にディランが悪いわけではありません。ディランは一つの時代を歌いきりました。あとは田所さんがその中でどのように生きるかだったのですから。


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