Sunday, 23 June 2019

2 The first meeting / Resting Elbows Nearly Prayer 2007

田所孝平が村木容子を初めて見たのは、高校入学直後、田所たちの一階のクラスの窓の外を、噴水の脇を、傘を指した村木が通っていったときだった。春のこまかな雨が降っていた。彼女を中心にして、すべての風景がしずまりかえっていた、そんな感じがした。彼女はすぐに通り過ぎ、それからあわただしい幾日かが過ぎた。田所が村木とふたたび出会ったのは、クラブ活動のときだった。
田所は生来の多関心から、クラブの選択に迷ったが、結局、自分の本来の性格にあった陸上競技部を選んだ。田所は、無条件で土が好きだった。土あるいは大地といってよかったが、足裏で大地を踏むときの感触が、たまらないくらいに好きだった。だからよく校庭で、意味もなく、逆立ちをしたり、寝転んで腹筋をしたりした。乾いた土も、雨上がりの土も、すべて好きだった。汗をかいた体で、休んでいると、風が校庭を吹き抜けていった。そしてすべての疲れを運んでいってくれた。土を踏み、風を切ること、こんなにすばらしいことはないと思われた。
田所は短距離も好きだったが、最も好きだったのは、走り幅とびだった。田所は中学一年のときの体育祭で、校内での400mの学年記録を出した。その後まもなく、400mは中学校では採用されなくなった。中学生には体力的に無理がかかりすぎるということらしかった。したがって、田所の中学校一年400mの記録は、永遠に田所のものとなった。たわいないことであったが、このことが田所にはうれしくてその後友達にも幾度か話したが、いずれの友達たちも、一様に、ふーんというだけでそれほどの関心は示さなかった。たしかにその程度のことではあった。しかし田所がもっとも伝えたかったのは、そのときの大地の感触と風を切るみずからの体の傾きにあった。
しかし100mなどの短距離は、ひとつの小さな中学校にも、圧倒的に速いものがいた。それはどんなに努力しても追いつけないものだった。すべてがそうであるかもしれないが、陸上には過酷な天分が存在した。田所は、その天分を跳躍に感じていた。それほど真剣でなく、らくな気持ちで跳んでも、むしろそれだからこそ、跳ぶたびによい記録が出た。走り幅跳びそのものはしかし、短距離走とは別種の、跳躍のタイミングなどのこまかな要素があったが、それも田所は、計算したり修正したりしながら楽しく跳ぶことができた。中学のときの2クラス合同の男子授業のときなどの3段跳びのとき、田所は圧倒的な飛距離を出した。
高校では、中学のときにはやや脇役であった走り幅跳びを中心にしてみようと思った。記録ももちろん大事だが、なによりもあの大地と風の感触をふたたび取り戻したかった。受験はやはり、純粋なそうした思いを遠ざけていることに気づいた。
陸上部に入部を申し込み、初めて校庭での練習に参加したとき、田所は村木が、一年でやはり陸上部に入部していたことを知った。田所はクラブの選択で逡巡していたために、入部がやや遅れたが、村木は迷わずにすぐに入部していて、もうクラブにすっかり溶け込んでいた。村木は典型的な短距離ランナーだった。短い髪が、走るたびに風にそよいだ。クラブの練習は男子と女子別々であったが、はじめと終わりのランニングだけは合同でやった。田所も一瞬、短距離をと思ったが、高校の短距離はいっそうレベルが高かった。田所の足では、努力の範囲を明らかに超えていた。走り幅跳びでは、しかし十分な見通しがたった。男子部員20名ほどの中で、一年で走り幅跳びを専門とするのは、田所だけだった。クラブに慣れると、飄々として快活な金井と親しくなった。金井は走り高跳びが専門だった。金井は、中学時代のベリーロールから背面跳びに変えていた。新しいチャレンジをしたいのだと言った。こうして三人の青春が始まった。
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