Friday, 21 June 2019

Professor O and Karlgren

Professor O and Karlgren

中国文学のO先生は、私の卒業後、しばらくして卒業時の謝恩会の私が写った写真を、手紙を添えてわざわざ自宅宛てに送ってくださいました。
先生とは研究生時代に、帰りの電車でご一緒させていただいた折、私が「先生、難解な元曲をよくゼミで取り上げられましたね」とたずねますと、先生は「ああいうものもしないといけないからね」というお言葉でした。しかしこの会話が先生との生前の最後のものとなりました。

O先生は私が専攻科時代に、修了のための論文として空海の著作の編年を言語的に検証したものを書きましたとき、K先生が私の論考をO先生に伝えていて、廊下でお会いしたとき、「田中君、君の論文と同じような方法をカールグレンが書いているのを知っているかね」と尋ねられ、私は「カールグレンの、グラマタ・セリカは見ていますが、私のような方法を記した論考は見ていません」と答えますと、先生は「研究室にそれを私が訳したものがあるから、見るかね」とおっしゃって、研究室で私にその大切なご本を貸与してくださいました。そのことをK先生に伝えると、Oさんは言語の達人だからね、と微笑みながら楽しそうに話してくださったことを、鮮明に覚えています。
その後、 先生が訳されたご本は神田の中国語専門書店、山本書店で見つけ購入したことを先生にお伝えしました。

O先生の深い学識に改めて触れたのも、この専攻科の論文について、先生が述べた短い言葉でした。田中君の方法はカールグレンに似ているがあの方法を多用するのは注意した方がいいよ、と述べられたのでした。先生はもうそれ以上何もお話しになりませんでしたが、私には先生の注意が、痛いほどわかりました。私が論文を書きながら最も気になったことだったからです。

私は論文を空海について書くことは早くから決めていました。しかしその方法がわからず、迷い続けていました。仏教史のK先生に提出するために、私が取れる方法がほとんどなかったからでした。古代史的にも仏教史的にも、私が何か新しいものを提示できることなど、限られた専攻科の時間の中ではほとんど存在しなかったのです。夏休みに入り、隣の市の本屋さんにたまたま立ち寄ったとき、そこでまったく偶然に、私は、日本の古代文学の高木市之助先生が書かれた岩波書店刊行の「貧窮問答歌の論」を眼にして、手に取りました。この本は,山上憶良の貧窮問答歌を全く独創的な方法で、分析したものでした。私は立ち読みのまま、高木先生の「文字の論」が私の求める方法であったことをその場で実感しました。この方法を用いれば、いくばくかの新しい結果をK先生に報告できるかもしれないと思ったのです。
高木先生は、貧窮問答歌の中に現れる漢字を訓字と音字に分けて、その出現度数を精査し、そこから貧窮問答歌の万葉集における特異性を指摘しようとしました。私の場合、空海の「三教指帰」の漢字本文全体の個々の文字の出現度数を調べ、その中で特に助字の度数を比べることによって、もしかしたら空海の記述の特性が浮かび上がるかもしれないというものでした。それからは毎日、時間があれば「三教指帰」全文の漢字の出現度数を調べ続けました。
論文提出の期限が近づく中、全文の漢字出現度数は完成し、助字の出現度数の多寡は確定しましたが、それによっては、空海の記述の特性は明瞭にはなりませんでした。冬が近づく中で、私はいろいろな方法を試しながら、最後に一つの方法を思いつきました。漢字出現度数は最終的な静的な結果であり、漢字出現の動的状況ではないことに思い至りました。空海が「三教指帰」を記述してゆくとき、どのような間隔で特定の助字を使用するか、その動的な記述の状況を調べればなにか特性が現れるのではないかと感じたのでした。
「三教指帰」全体の中から、頻出する特定の助字を選出し、それらがどのような間隔差で出現するかを、方眼用紙上に棒グラフとして示していきました。すると、上巻と下巻は助字の出現状況が近似しているのに、中巻だけはまったく異なる出現状況が、グラフ上に明示されたのです。「三教指帰」の中巻は上巻・下巻に比較してきわめて短いもので、その特異さはかつてから指摘はされていましたが、私はこの助字の出現状況から、上巻と下巻はほぼ同時期に書かれたが、中巻だけはこれとは別の時期に書かれたのではないかと推測し、これを論文の結論としました。
漢字の静的な出現度数に時間差という動的状況を加えた分析から著作の撰述時期に区分を付けたのでした。
O先生が訳されたカールグレンの著作では「春秋左氏伝」に出現するいくつかの助字を「論語」と「孟子」の助字の出現と比較することによって、「左伝」の作者特定や時代を特定しようとしていました。確かに私が用いた方法と近似するものでした。
しかしO先生の慧眼は、カールグレンや私の方法の一定の有用性を認めたうえで、この方法の大きな問題点を見逃してはいなかったのです。
問題点の大きな一つを簡潔に述べれば、検査する著作の量的大きさが,挙げられます。いわゆる母集団の大きさです。「春秋左氏伝」は「論語」や「孟子」に比べて圧倒的に膨大な著作です。空海の「三教指帰」について言えば、上巻と下巻は、中巻に比べてずっと大きな著述になっているのです。つまり、量的にあまり均質でない集団を比較することの危険性ということになります。私自身が論文を書きながら、この危うさに気付いてはいましたが、そこに立ち止まると論文が完成しないために、この母集団の比較検討を行うことなく、論文をまとめてしまいました、O先生の慧眼は、そのことを見逃さなかったのです。
先生は私の研究生時代に急逝されました。私は先生からもっともっと多くのことを教えていただきたかったと、先生の温容を思い浮かべながら、思わずにはいられません。

O先生に申し上げなかった一つの事実が今も私の中に残ります。私が高校生であったとき、私の机上にはいつも先生が編者のおひとりであった漢和辞典が置かれていたのです。私が大学で、中国語を学ぼうとしたその一つの大きな契機が先生の辞典にあったのです。そのことを、せめて一言でもお伝えしたかった。先生とは幾度も何げない会話ができましたのに、こんな大切なことを私はお伝えしませんでした。
​かつて大学で私が、漢字音について口頭発表した後の懇親会のときに、O先生は「田中君、よかったら、研究会に紹介するよ」とおっしゃってくださいましたが、私には恐れ多いので、ご辞退した記憶をありがたく想い出します。そのような力は、今もそうですが、まして当時の私にはありませんでした。しかし先生の学恩が忘れられません。もしかしたら非才な弟子の一に入れてくださったのでしょうか。

Extracted from an essay on library 2018, partly revised.

Tokyo
21 June 2019
SRFL

No comments:

Post a Comment